041 「風流士ミヤビヲ」
○遊士ミヤビヲと われは聞けるを 屋戸ヤド貸さず
われを還カヘせり おその風流士
石川女郎イシカワノイラツメ・巻二 − 一二六
○遊士に われはありけり 屋戸貸かず
還ししわれそ 風流士にはある
大伴田主タヌシ・巻二 − 一二七
大伴田主は美男子で教養があり、然も名門の子弟で、「見る人、聞く者みな思わず溜
息を吐ツいた」と云います。
一方の石川女郎は、大津皇子の侍女らしいが、素性ははっきりしません。大津皇子に
想いを懸けられていたとしますと、これまた相当な美女であったでしょう。最も大津、
草壁両皇子に愛された石川女郎と、この話の主人公が同一人物かどうかは疑問とする説
もありますが・・・・・・。
正倉院御物樹下美人図などから当時の代表的な美人は、下膨れのふっくらとした顔立
ちを想像しますが、石川女郎はどうであったでしょうか。
石川女郎が大伴田主に想いを寄せました。しかし、幾ら積極的でも「好きです」と押
し掛けてゆくのは、流石に気が退ヒましたが、妙案を思い付きました。或夜、老婦の姿に
身を窶ヤツして、田主の家を訪れました。「東隣の女ですが、火を頂きに参りました」。
勿論口実です。
東隣の女とは、美人と云うことに中国においては決まっていました。これは中国の書
『文選モンゼン』から来ています。この中で楚の詩人宋玉が好色であると讒言ザンゲンされ
て、その申し聞きをした件クダリがあります。「楚には美人が多い。その中でも私の里に
いる女は美しい。更にその中でも私の家の東隣に住む女はもっと美しい。その女性に言
い寄られても私は身を守った」と云うのです。この有名な話から「東隣の女」と言った
訳です。
ところが訪問された田主は、辺りが暗い上、物を被った石川女郎の様子が分かりませ
んでした。引き留めて応対するのも面倒だと、そのまま帰して仕舞いました。石川女郎
は、何とも形容のしようのない気持ちでした。当時の風習にも従わず、仲立ちの人も立
てずに、自ら訪れたのに・・・・・・。
「あなたは風流の分かる人だと聞いているのに、私に宿も貸さずに帰したとは、随分
間の抜けた風流人ですこと」。
田主も負けてはいません。「私は自分が風流人であることをが分かりましたよ。宿を
貸さずに、あなたを帰した私こそ、本当の風流人なのですよ」。応答の歌の形式を守り、
相手の用いた語句をそのまま使って胸を張って答えたのです。
「風流」の元は「みやび」ですから、宮廷風の教養を身に付け、更に風雅の遊びを楽
しむことの出来る、のような意味でしたでしょう。中国文学の知識も身に付けており、
その知識を男女関係に応用した訳です。尤も、この物語全体に、宮廷貴族社交場の脚色
若しくは創作の色合いが濃いとも云えるのですが・・・・・・。
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