038 「布留山フルヤマ」
 
○未通女ヲトメらが 袖布留山ソデフルヤマの 瑞垣ミヅガキの
 久しき時ゆ 思ひきわれは
                           柿本人麿・巻四 − 五〇一
 
 天理市の町並みを東へ抜け、布留川を渡りますと、石上イソノカミ神宮の境内です。「境内
の布留山一帯は絶好のアベックコースらしいですよ。殊によると、昔から縁結びの神さ
まであったのかも知れません」と宮司は笑います。
 『万葉集』にある「布留」や「石上」を詠んだ二十首近くの殆どが恋歌で、人麿の歌
もその一つです。
 「神に仕える舞姫等が袖を振る、布留の山の神社の瑞垣が年経たように、長い年月私
は想い続けてきました」。
 上句は「振る」を「布留山」にかけ、更に下句の「久しき時ゆ・・・・・・」を導くための
「二重の序詞」です。万葉に多い技法です。意味としては下句だけとも云えますが、序
詞部分の心象や連想が見事に生きています。非常に有名な歌であったらしく、これを本
歌にした歌が『万葉集』だけでなく、『新古今集』にも見えます。本居宣長の『古事記
伝』では、人麿以前の歌だとしており、古くから民謡のように詠い継がれていたのかも
知れません。
 
 樹齢五百年と云う神杉の根元から、けたたましい叫びを上げて鵯ヒヨドリが飛び立ちまし
た。拝殿の奧には、古来から「禁足地」として尊ばれた約八百uの神域があります。ご
神体の霊力や鏡なども、この中央に埋められていたと云います。剣先状の石柱を連ねた
玉垣は江戸時代中期に造られたものですが、恐らく万葉の頃にも、古くから知られた見
事な「瑞垣」があったのでしょう。
 
 諸垣ミヅカキの 久しき時ゆ 恋すれば
 あが帯ゆるふ 朝夕ごとに
                         作者未詳・巻十三 − 三二六二
 
 身も痩せる程に想い詰め、帯が緩くなってしまった、と云う歌です。この表現は、『
文選モンゼン』か『遊仙窟』と云う唐代の本から出ているらしい。上句は古来からの日本的
表現、下句は大陸文学の翻訳 − まるで、ある時代の象徴みたいな歌です。奈良朝の知
識人は大いに『遊仙窟』を愛読していたと見え、頻りに「帯がゆるく・・・・・・」と詠んで
います。
 
 一重のみ 妹が結ばむ 帯をすら
 三重結ぶべく あが身はなりぬ
                           大伴家持・巻四 − 七四二
 
 社殿前の暗く静まり返った鏡池には、ワタカと云う魚が棲んでおり、奈良県の天然記
念物です。南北朝の頃、後醍醐天皇は密かに吉野へ向かわれました。追手は迫り、軍馬
の嘶イナナきが間近に聞こえます。それに連れて天皇の乗馬も嘶こうとしました。追手に覚
サトられてはと、従者は馬の首を切って落とし、神社の近くにあった永久寺の本堂池に捨
てました。それが魚化したと云います。ワタカは一名「馬魚」で、杉菜スギナなどの若草
を好むと云います。
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