037 「山辺ヤマベの道」
○言霊コトダマの 八十ヤソの衢チマタに 夕占ユフケ問う
占ウラ正マサに告ノる 妹イモはあひ寄らむ
作者未詳・巻十一 − 二五〇六
○海石榴市ツバキチの 八十の衢に 立ち平ナラし
結びし紐を 解トかまく惜しも
作者未詳・巻十二 − 二九五一
「八十の衢」とは、道が幾つにも分かれている処で、此処に海石榴市があったことは
前項において触れました。其処での”催し物”が歌垣でした。若い男女が寄り集まり、
恋の歌を掛け合って相手を選ぶのです。言葉には霊力があると信じられていました。ま
して歌にも同様に霊力が宿っているのです。
「その八十の衢で夕方、占いをしたところ、正に出たぞ、良いお告げが。あの子は私
に寄り添うという」。
「地面が平らになるまで立ち尽くし、詠い合って・・・・・・あなたが結んでくれた帯紐を
解くのが惜しゅうございます」
共に柿本人麿歌集からの歌です。しかし、こうした微笑ましい光景ばかりではありま
せんでした。明るい道ばかりではありませんでした。海石榴市から北へ伸びる「山辺の
道」には、悲しい恋の物語が秘められています。『日本書紀』の武烈紀に見える影媛カゲ
ヒメの話です。
六世紀の初め、武烈天皇が未だ太子であった頃のことです。美しい影媛を見染めまし
た。仲人を立てて申し込みましたが、影媛には既に恋人がいました。しかし太子の激し
い気性を恐れ「海石榴市でお待ちします」と答えました。歌垣でなら、よもや、あの人
は後れを執ることはあるまい・・・・・・。
約束の日、太子は海石榴市の人混みで影媛の腕を執りました。その二人の間へ入った
のが平群真鳥ヘグリノマトリの子、鮪シビでした。真剣勝負のような歌の遣り取りがありまし
た。
日頃から平群父子の勢いを快く思っていなかった太子は、影媛が既に鮪のものと知っ
て烈火の如く怒りました。その夜、大伴金村に命じて鮪を平城山で暗殺させたのです。
影媛の悲しみは、どんなであったでしょうか。今の天理市石上神宮の辺りに勢力を持つ
物部氏の娘でしたが、涙ながらに山辺の道を北へ向かいました。布留フルから高瀬川上流
の高橋を過ぎ、高円山麓の大宅を過ぎ、春日野から佐保川へ − 美しい食器に飯まで盛
り、美しい椀に水まで盛って・・・・・・。
石イスの上カミ 布留を過ぎて 薦枕コモマクラ 高橋過ぎ
物多モノサハに 大宅過ぎ 春日ハルヒ 春日カスガを過ぎ
妻隠ツマゴモる 小佐保ヲサホを過ぎ
玉笥タマケには 飯イヒさへ盛り 玉タマモヒに 水さへ盛り
泣きそぼち行くも 影媛あはれ
『日本書紀』
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