034 「磯城島シキシマ」
 
○磯城島の やまとの国に 人多サワに 満ちてあれども
 藤波フジナミの 思ひ纏モトほり 若草の 思ひつきにし
 君が目に 恋ひや明アかさむ 長きこの夜を
                         作者未詳・巻十三 − 三二四八
 
 矢張り、此処は夜に来るべき処でした。三輪山の西南の麓に沿う、以前の大三輪町(
現在は桜井市)は昼間来て見ますと静かに日の光を浴びていますが、日が落ちて三輪山
が黒々と静まり返ったときは、また格別の趣きが味わえることでしょう。
 「この磯城の大和の国には人が沢山いるけれども、どうしても離れないのは、やさし
いあなたの目です。その目を恋しく思いながら、この長い夜を明かすことです」。
 夜になっても、恋する心は藤の蔓のように絡み付いて、その目から離れることが出来
ないのです。眠られぬ長い長い夜でした。
 この歌の反歌は、
 
 磯城島の やまとの国に 人二人
 ありとし思はば 何か嘆かむ
                              巻十三 − 三二四九
 
 大和の国に貴方のような人が二人いると思うのでしたら、何を嘆くことがありましょ
う − と云う意味ですが、明治の頃には「貴方と私の二人がいると思えば・・・・・・」と解
釈し、「ロマンチシズムの勝利」と高らかに謳ったそうです。「しきしまのやまと」は
磯城地方の大和です。島は海の中にある島ではなく、古くは「ある地方」を指す言葉で
した。三輪山の麓に、律令制の定まる以前の段階の古代共同体の生活圏がありました。
「やまと」は未だ小さい「大和」でした。「しきしまの」と云う言葉は、未だ生きてい
ました。やがて「しきしまのやまと」で、広く日本全体を指したときには、言葉は既に
固定化されていました。
 この「大和」地方は「神体山」三輪山を背景に、水陸の地の利を得て賑わいました。
崇神天皇の瑞籬ミズガキ宮、欽明天皇の金刺カナザシ宮も、この地方に置かれたと伝えらりて
います。
 
 苦しくも 降りくる雨か 三輪が崎
 狭野サノの渡りに 家もあらなくに
                         長忌寸奧麻呂・巻三 − 二六五
 
 この歌はこの辺りのことかとも云われていますが、そうしますと万葉の頃に渡り場は
繁栄を失いかけていたと見なければなりません。
 中国からの最新知識を運んだ船が上って来た初瀬川(大和河)は、未だ広い川幅を残
していましたが、現在は水量はぐっと減り、川の半分以上は土に埋もれ、畑となってい
ました。川の南側も一面の畑で、この中にある筈の金刺宮跡は何処なのでしょう。冷た
い風の吹く堤防から見ますと、海石榴市ツバキチの在った金屋を中心として小部落が三輪山
の麓に纏マツわり付くように続いています。瑞籬宮の在ったと云う御県社の森がこんもり
と深い。
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