033 「長谷ハセ」
 
○隠口コモリクの 泊瀬ハツセをとめが 手に巻ける
 玉は乱れて ありといはずやも
                        山前王ヤマクマノオオキミ・巻三 − 四二四
 
○河風の 寒き長谷ハツセを 嘆きつつ
 君が歩くに 似る人もあへや
                               同・巻三 − 四二五
 
 桜井市初瀬町の長谷寺は、わが国でも指折りの古い寺です。七世紀末、天武天皇のと
きに建てられたと伝えられます。
 三輪山の麓を廻り、初瀬川を遡った山間の地で、門前には食べもの屋、土産物店、旅
館などが犇ヒシめき合います。境内にある約三千株の牡丹が咲き乱れる頃には、この狭い
谷間が割れんばかりになります。
 平安の昔、紫式部も清少納言も、この山深い寺へ何度も足を運びました。何故でしょ
う。「長谷という地が、原始生命の発祥地であり、その要カナメにこの寺が建っていたから
です。彼女等は、それを感じることが出来た」と言う人もおります。確かに地形は美し
く、神の坐ます三輪山の奧にあり、然も雄略帝がかつて朝倉宮を築いた処です。また、
飛鳥地方から見ますと、太陽も月もこの谷間から昇ります。
 と同時に「はつせ」とは、人の果てる処、と云う説もあります。それを裏書きするよ
うに、初瀬の山里は古くから墳墓の地と見られていました。この二首も、題詞では、初
瀬山に葬られた石田王イワタノオオキミを悼む山前王の挽歌であると云います。また左注では、
愛する紀皇女に先立たれた石田王に代わって山前王が歌ったとも・・・・・・。
 「初瀬おとめが手に巻いている玉飾りは、緒が切れて乱れ散っているというではない
か」 − 葬列を見送る乙女、玉には魂が宿るとか。玉飾りの乱れに、心の悲しみを見て
とったのです。そしてまた「河風の寒い初瀬の谷を、恋い嘆きつつ歩き回っておられた
あなた。しかし、もう似た人にさえ逢えない」と歌います。
 古代の人達の考えた「死」とは、生命が”ふるさと”に帰ることであったのでしょう。
「愛」もそうです。そうした古くからの感じ方が、今も庶民信仰の底には流れているよ
うです。
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