032 「国中クンナカの村々」
 
○想はぬを 想ふといはば 真鳥マトリ住む
 卯名手ウナテの杜モリの 神し知らさむ
                         作者未詳・巻十二 − 三一〇〇
 
 早春の国中(大和盆地)の野はしんとして広い。畝傍山の西北に雲梯ウナデの古い森が
あり、事代主命をお祀りしています。「杜モリ」はここでは神霊の宿る森のこと、「社ヤシロ
」と云うのは、屋代、その神霊のある屋の代わりの神籬ヒモロギと云う意味でした。
 「鷲ワシや鷹タカなどの棲むこの鬱蒼たる杜の神に懸けて、真の恋をしたいと思う」。こ
の歌は、女に口先だけの恋を窘タシナめているとも取れますが、恐らく女が「自分は偽りを
言わない。心の底から想っている」という意味でしょう。「偽れば、雲梯の神はご存知
でそのままにはなさらないでしょう」。ご祭神事代主命は事を知り、言を知ろしめされ
ました。
 森の辺ホトリの曽我川には清らかな青菅が茂っています。
 
 ま菅スゲよし 曽我の河原に 鳴く千鳥
 間なしわが背子 わが恋ふらくは
                         作者未詳・巻十二 − 三〇八七
 
 「青菅の清スガしいこの曽我の河原に鳴く千鳥のように、わが背子よ、私は絶え間なく
あなたを想う」。この地方の民謡的な類型の歌であったのでしょう。
 
 うちわたす 竹田の原に 鳴く鶴タヅの
 間なく時なし わが恋ふらくは
                         大伴坂上郎女・巻四 − 七六〇
 
 同じ国中の橿原市東竹田の辺りは大伴氏の庄で、そこの農民は大伴氏の倉庫に稲を納
めたのです。大伴旅人の妹坂上郎女は、ときどきこの田園に居ました。甥の家持も訪ね
て来たことがあります。この歌は「この原に鳴く鶴ツルのように、絶え間もなくあなたを
想う」と、奈良に居る坂上大嬢に贈ったものです。
 
 唐古遺跡に程近く、三宅村や宮古(田原本町西北)地方があります。「三宅ミヤケ」とは
元農民がその稲を納めた官有倉庫で、それから其処の農民や土地自体を三宅と云うよう
にもなりました。
 
 うちひさす 三宅の原ゆ ひた土に 足ふみぬき 
 夏草を 腰になづみ いかなるや 人の子ゆゑに 通はす吾子
 うべなうべな 母は知らじ うべなうべな 父は知らじ
 蜷ミナの腸ワタ か黒き髪に 真木綿マユフもち あざさ結ひ垂れ
 大和ヤマトの 黄楊ツゲの小櫛を 抑へさす うらくはし子 それわがつま
                         作者未詳・巻十三 − 三二九五
 
 「三宅の原を通って、どんな娘のところに通うのか、息子よ」「ほんとほんと、お母
さんもお父さんも知るまいよ。黒髪に花蓴ハナジュンサイのような髪飾りを結び垂れ、黄楊の
お櫛をさしている可愛い娘、それが私の恋人だよ」。恋知り初めて娘に通う子と、それ
を心配する親との問答です。その娘は、今も柘植ツゲの茂る山辺郡都祁ツゲ村の名産の美
しい櫛クシを挿していました。鄙びた歌曲、鄙びた風俗、古い大和農村生活の一齣ヒトコマを
偲ばせる演劇歌曲でした。
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