031 「百済野クダラノの早春」
 
○百済野の 萩の古枝フルエに 春待つと
 居りし鴬 鳴きにけむかも
                          山部赤人・巻八 − 一四三一
 
 まだまだ厳しい寒さの続く立春、その間にも時折り風もなく、麗らかな春の日を思わ
せる、そんな日の百済の里(北葛城郡広陵町百済)は如何にも「国ん中」と云うに相応
しく、紫に霞んだ山々を遠くに見て、小村落は静まり返っています。この辺りは昔朝鮮
からの帰化人が固まって住んでいた処で、それは百済と云う地名からも想像出来ます。
平凡な小村落も、かつては当時の最新の技術を身に付けた人々が集まっていた訳です。
田畑の中に小さな森があり、三重塔が頭を突出しています。
 飛鳥地方を転々としていた大和朝廷は舒明十一年(639)、此処に宮を遷しました。曽
我川(百済川)と葛城川に挟まれた大和平野のほぼ中央に当たります。山に囲まれた飛
鳥地方に比べますと実に開放的で、軍事上の地形の利などは必要なくなっていたのかと
思う程です。舒明天皇は自ら宮と寺の建設に取り掛かりました。その時に建てられたの
が百済寺で、聖徳太子の学問所、熊凝クマゴリ精舎ショウジャを移したと云われます。百済寺は
九重の塔が威容を誇ったと伝えられますが、後に飛鳥に移されて大官大寺となり、更に
平壌遷都の際、奈良に移されて大安寺となりました。現在は鎌倉時代の三重塔があるだ
けで、とても伝えられるように大官大寺が在ったとは思えません。
 
 「百済の萩の古枝で春を待っていた鴬はもう鳴いただろうか」。山部赤人も春を待っ
ていました。赤人は自然歌人と云われますが、これはまた随分絵画的な歌を詠んだもの
です。萩と云う、当時としては新しい好みの植物を読み込んで、この歌を何気なく詠ん
でみただけで、何処かにこんな絵がなかったかなと思う程です。赤人の頃は百済野は、
既にひっそりとした野に戻っていたのでしょうか。長閑な原野に百済からの帰化人が固
まって住み着き、其処に宮が建ち、寺が建って賑わいをもたらしたと思ったのも束の間、
宮は遷り、寺も運び去られて・・・・・・と云う目まぐるしいばかりの変転振りです。そんな
推移を古い萩の小枝に託したのかも知れません。春を感じている細やかな情感を微妙な
見方で詠み込まれていますが、一読して絵画が目に浮かぶ技巧的なものと思える程不思
議な歌です。
 原文では「鳴きにけむかも」を「鳴爾鶏鵡鴨」とし、「鴬」を詠み込んだ歌の締め括
りを、鳥の名前を連ねて書き表した洒落っ気が感じられます。
 塔の周りの桃の木の林も、枝の蕾はまだ硬い。百済野は未だ名のみの春です。
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