030 「うぐいす」
 
○春山の 友鴬トモウグヒスの 鳴き別れ
 帰ります間マも 思ほせわれを
                        柿本人麿歌集・巻十 − 一八九〇
 
○春山の 霧に惑マトへる 鴬も
 われにまさりて 物思はめや
                        柿本人麿歌集・巻十 − 一八九二
 
 「春の山で、鳴きながら別れる鴬のように、私もまた泣く泣く別れます。お帰りの道
の間でも、私のことを思ってくださいませ」「霧に迷った鴬でも、私ほどに苦しい思い
はしないだろうに・・・・・・」。
 ほの白い夜明け、霧の中へ消えて行く男を、じっと見送る女の姿が目に浮かぶようで
す。男にしても、後ろ髪を引かれる思いでしょう。或いは恋人同士かも知れません。正
式に結婚した場合も、当時は妻問い婚と云って、夫が妻の家へ通うのが普通でした。そ
れだけに朝の別れは辛い。愛し合っていればいる程、悲しさも一入ヒトシオであったでしょ
う。
 
 この二首は共に「柿本人麿の歌集に出づ」とあり、人麿の自作かも知れません。素朴
な調べの中に、切々とした響きがあります。鳴き慣れた里鴬の声ではなく、春未だ浅い
頃の、懸命に鳴く山鴬の声です。生きる悲しみ − とでも云いましょうか、そんな響き
が伝わって来ます。人麿の頃には、未だ鴬を趣味的に見る傾向はなかったようです。
 それが奈良時代になりますと、次第に庭先の鴬を詠うようになり、風流意識が目立っ
て来ます。季節で云いますと春たけなわ、すっかり鳴き方も堂に入ったもので、惚れ惚
れするような技巧派の鴬もいます。例えば、
 
 春霞 流るるなへに 青柳の
 枝くひ持ちて 鴬鳴くも
                          作者不詳・巻十 − 一八二一
 
 普通なら「霞たなびく」となるところですが、春の霞が流れるに連れて − と詠う。
『万葉集』に「霞流る」と云う表現は、他にはないようです。当時の新知識である漢詩
に学んだ表現と見られ、確かに新鮮な感じがします。然も、燃えるような色鮮やか青柳
の枝をくわえた鴬は、「工芸化され、模様化された美しさ」と評されていますが、恐ら
く作者の心象(イメージ)には、これも当時流行していた「花くい鳥模様」があったの
でしょう。
 花くい鳥模様の原形は、四世紀末から中近東で栄えた東ローマ帝国にあると云います。
それがペルシャなどを経て中国へ伝わり、唐代に大流行しました。鳥と見れば何にでも
花をくわえさせさせ、遂には官位を示す飾り紐の綬にまで花くい鳥模様が用いられまし
た。わが国の奈良文化は、殆ど唐文化の模倣でしたので、とうとう歌の中の鴬にまで柳
の枝をくわえさせた − と見ることが出来ます。
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