029 「立春」
 
○ひさかたの 天アメの香具山 この夕ユフベ
 霞たなびく 春立つらしも
                        柿本人麿歌集・巻十 − 一八一二
 
 香具山は侵食残丘ですが、見る方向によって、随分形が違います。南の方から見ます
と田園の続く中におおどかに、柔らかい曲線を描いています。北から見ますと、東から
続く丘陵の先端に松林の茂ったこんもりとした形で、独立した山のようには見えません。
何れにしても、天高く聳え立っている訳でもなければ、木が鬱蒼と生い茂ったもの凄さ
を感じさせる訳でもありません。見るものに「可愛らしい」気持ちを抱かせる山です。
この山が古代では「天から下った山」として神聖視されました。山の形から云っても、
それは恐れを抱かせるものと云うよりは、親しみを持っての神聖感であったに違いあり
ません。
 
 この歌は巻十の巻頭歌です。一度でも香具山のあの姿を見たことのある人なら、この
情景は目に浮かびます。如何にも静かな、長閑ノドカな感じです。夕霞の棚引く田園風景
は、何かしら人の心を動かすものがあります。ただ、この歌の背後にある感覚を現代の
人々が、直ぐに理解出来るかどうかは疑問です。一つには季節に対する感覚の違いがあ
るからです。現代の生活は自然への依存度から見ますと古代とは、はっきり違っていま
す。現在の我々に執って、四季とは何でしょう、肌で感じる暑さ寒さと、周囲の景色の
移り変わりに過ぎないだけなのでしょうか。
 昔の人々に執って春は非常に大切な季節でした。寒い冬が去って行くのが嬉しいなど
と云う単純なものではありません。春は、もの皆復活する季節なのです。草木の芽が萌
え出すことに象徴される、豊かな生産の時です。何もかも復活するのです。こうした喜
びにおいて、未だ内面化の進んでいない時代には、自然ばかりでなく、人もまた復活す
ると、人々は素直に考えたのではないでしょうか。
 そして、現代の都会人にそんな考え方はなく、人間は復活しない、復活は自然だけの
特権である、と云う考えも出て来るのです。
 
 「春が立つ」、「立つ」には「神が現れる」と云う古い意味もあると云われています。
そこから、更に限りない生産の始まりとなります。自然が生活に密着していた古代人は、
春の訪れを待ちわび、神聖な香具山に、その兆キザしを見たのです。そして今も、香具山
の麓では生産活動が始まっていました。夕刻が近付き、低くなった光線は全ての影を長
く伸ばしました。農家の主婦は生産の豊かなことを祈って、肥料撒きに余念がありませ
ん。
 ふと見守る香具山は優しく、懐かしい。
 
 いにしへの ことは知らぬを 我みても
 久しくなりぬ 天の香具山
                          作者未詳・巻七 − 一〇九六
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