025 「真神の原」
 
○大口の 真神マカミの原に 降る雪は
 いたくな降りそ 家もあらなくに
                       舎人娘子トネリノヲトメ・巻八 − 一六三六
 
 大宝年間(八世紀の始め)でしょうか、寒さの厳しい或冬の日、真神の原を通りかか
った女性がありました。恐らくは都の藤原京の方から遣って来たのでしょう。華やかな
都に比べ、この土地は既に過去の土地でした。昔と云っても、そう遠い昔ではなかった
のに、この近くに在った飛鳥の宮々は、疾トうに、荒れ果てていました。昔から、あまり
家のない真神の原には、本格的な寺としては初めての法興寺が、この殺風景な野原の中
に威容を誇って建っていました。折りから、低く垂れ込めた雲から白いものがチラホラ
し始め、見る間にその量を増しました。
 「真神の原に降る雪よ。あまりひどく降らないでおくれ。この近くには家もないこと
だから − 」。
 冬の日に、真神の原に立って、こんな物語を頭に描いて見ました。
 昔の法興寺の跡に立てられた現在の安居院(飛鳥寺 = 高市郡明日香村)は、以前に比
べますと比較にならない程小さいものでしょう。
 飛鳥は古くから蘇我一族が勢力を張り、また帰化人も多く住み着き、やがてこの二つ
の勢力が結び付き、当時としては進歩的勢力として仏教の興隆の基を築いた処です。法
興寺も、蘇我馬子によって推古四年(596)に建てられたと伝えられています。馬子は崇
仏家であると同時に、仏教伝来の過程を通じて、血で血を洗う争いを遣って退けた人物
です。
 例を挙げますと、物部氏を抑えて独裁体制を作ろうとした馬子は、それを防げようと
した崇峻天皇を帰化人東漢ヤマトノアヤノ直駒アタヒコマに殺させ、更に直駒をも殺しました。目的
のためには手段を選ばぬ遣り方で、同族間で血の流れることも恐れませんでした。一般
に仏教の伝来、興隆には聖徳太子の力が大きかったと云われていますが、その裏には
蘇我馬子と云う並外れた実力者の陰の力があった訳です。
 
 蘇我氏の氏寺的な性格を持って栄えた法興寺は、その後元興寺と名が改められ、奈良
へ都が遷ったときには、寺籍が移されて、更に栄えました。元の寺は本元興寺、飛鳥寺
として存続していた訳で、鎌倉時代に落雷で焼け、以後段々衰え、今はこじんまりとし
た寺が飛鳥大仏を守っています。
 寺の西側には、大化改新の際、中大兄皇子、中臣鎌足等に殺された蘇我入鹿(馬子の
孫)の首塚と伝えられる石塔が、畑の真ん中に侘びし気に立っています。
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