023 「佐太サダの岡」
 
○朝日照る 佐太の岡辺ヲカヘに 群れ居つつ
 わが泣く涙 止む時も無し
                   日並ヒナミシ皇子の宮の舎人トネリ・巻二 − 一七七
 
 訊ね訊ねて辿り着いた草壁皇子(日並皇子)の墓は、高市郡高取町のなだらかな丘の
上に端正な佇まいを見せています。墓と云っても宮内庁の管理する御陵で、岡宮オカノミヤ
天皇真弓丘陵となっています。岡宮天皇とは、皇太子のまま亡くなった草壁皇子を愛し
た母の盧(盧偏+鳥)野ウノ皇后 = 後の持統天皇 = が贈った称号で、いわば”準天皇”
として扱った訳です。御陵はこんもりと繁った森に覆われ、その前は傾斜地を切り拓い
た畑となっています。
 草壁皇子が亡くなった持統三年(689)、皇子に仕えた舎人等がこの辺りに集まって嘆
き悲しみました。「皇子を葬った佐太の岡に群がって、泣く涙はかわくときがない」。
これは舎人等の作った二十三首のうちの一つです。「朝日照る」は実景でもあり宮誉め
の類型句でした。皇子を慕って止まない舎人等は、柿本人麿の指導を受けて、それぞれ
に悲しみの気持ちを詠ったのでしょうか。
 
 草壁皇子の一生も短かったが、可成り波乱に富んだものでした。天武天皇と盧(盧偏
+鳥)野皇后との間に生まれ、年齢、血筋から云って天武帝の後継者の第一候補でした。
その好敵手であったのが大津皇子です。二人が互いにそれを意識して、張り合っていた
かどうかは分かりません。寧ろわが子を思う勝ち気の母盧(盧偏+鳥)野皇后の意識の
方が強烈であったでしょう。
 この二人は皇位とは別のことで張り合ったことがありました。石川郎女イラツメと云う女
を巡ってです。いわば恋敵の二人が共に石川郎女に贈った歌が『万葉集』に残っていま
す。この恋の勝負は大津皇子に軍配が上がったらしい。草壁皇子とても血統と云い、才
能と云い、一角ヒトカド以上の人物であったでしょうが、文武に亘る豊かな才能の持ち主大
津皇子では、相手が悪かったようです。
 恋の鞘当てをしている間はよかったが、天武天皇の病気 − 崩御に連れて事態は急激
に悪化、大津皇子は謀反の罪で死刑に処せられてしまいました。
 
 しかし皮肉にも草壁皇子は、即位せぬまま二十八歳の若さで急死してしまいました。
草壁皇子もまた違った意味での悲劇の皇子であったに違いありません。
 
 あかねさす 日は照らせれど ぬば玉の
 夜渡る月の 隠らく惜しも
                                巻二 − 一六九
 柿本人麿が、皇子の仮埋葬のときに詠んだ歌です。
 皇子に仕えた数多い舎人にしても、晴れの舞台を間近の控えての皇子の死は、一層痛
ましかったことでしょう。静まり返った御陵を丘の下から振り返って見ますと、何とな
く丘全体が内に秘めた物悲しさを感じさせています。
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