021 「大津皇子」
 
○ももづたふ 磐余イハレの池に 鳴く鴨カモを
 今日のみ見てや 雲隠クモガクりなむ
                           大津皇子・巻三 − 四一六
 
 大津皇子の像(重要文化財)は、薬師寺に伝わり、奈良国立博物館に保管されていま
す。この像は衣冠束帯を著ツけた貴公子で、ふっくらした顔立ちですが、一寸眉を顰ヒソめ
て伏目勝ちの表情は憂いを含んでいます。偉大な才能を持ちながら、ある意味ではその
才能故ユエに二十四歳の若さでこの世を去らなければなりませんでした。像は多くの木を
組み合わせて作った寄木作りで、鎌倉時代のものと云われ、悲劇の皇子の痛ましい事件
を頭に置いた作者は、自然にこのような表情を作り上げたのでしょう。
 
 大津皇子は、天武天皇と天智天皇の皇女大田皇女の間に生まれました。天武帝の後継
者としては、盧(盧偏+鳥)野ウノ皇女との間に生まれた草壁皇子と共に有力候補でした。
草壁皇子の方が年上で、母が女ながら天武帝を輔けた”実力者”盧(盧扁+鳥)野皇后
(後の持統天皇)であるところから条件は良かったが、個人の才能が違いました。草壁
皇子も一角ヒトカド以上の人物であったでしょうが、とにかく大津皇子が出来過ぎました。
『懐風藻』に拠りますと、姿は立派で、子供のときから学問を好み、文をよく作った上、
武力も優れている − としており、『日本書紀』には、祖父に当たる天智天皇に愛され、
文学に長じたと書いてあり、「詩賦の興大津に始る」とあります。
 
 しかし、腹を痛めたわが子草壁皇子の皇位継承を願う盧(盧扁+鳥)野皇后に執って
は、目の上の瘤コブどころではなかったに違いありません。
 天武帝の在世中はそれでもどうにか収まっていましたが、朱鳥シュチョウ元年(686)、天
武帝の崩御と共に破局が急に訪れました。約一月後、それまで莫逆バクゲキの友であった
河島皇子に裏切られて、大津皇子は突然謀反ムホンの疑いで捕らえられ、翌十月三日現在の
桜井市池之内付近で処刑されました。弁解の余地も何もなく、低く垂れ篭めた雲間から
初冬の光が漏れる夕刻の刑場に引かれた皇子の姿が目に浮かぶようです。「磐余の池に
鳴く鴨を見るのも今日限りで私は死んで行く」と詠った皇子の胸中はどんなものであっ
たでしょう。古代の人に執って鳥は、空を飛び、季節によって姿を現すことなどから、
霊魂そのもの、或いは生命力の使者と云う風に考えました。この歌の鴨も単に写実的な
鳥ではなかった筈です。皇子はこの歌と共に漢詩も残しました。
 
 金烏キンウ 西舎に臨み 鼓声短命を催ウナガす
 泉路賓主なく この夕家を離れて向う
 
 寂しいとも何とも云いようのない詩ではないでしょうか。この頃、皇子の妃山辺皇女
は髪を振り乱し、泣きながら刑場へ走っていました。皇子の耳に鴨の鳴く声と聞こえた
のは皇女の泣き声であったかも知れません。
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