020 「吉隠ヨナバリ」
 
○降る雪は あはにな降りそ 吉隠の
 猪養(ヰカヒ)の岡ヲカの 寒サムからまくに
                           穂積皇子・巻二 − 二〇三
 
 和銅元年(708)、但馬皇女は亡くなりました。高市皇子の妃キサキでありながら、穂積
皇子に一途な想いを寄せ、いじらしい程の女心を『万葉集』に留めた悲恋の皇女の亡骸
ナキガラは吉隠の猪養の岡に葬られました。吉隠とは「山に隠れた、よいところ」の意味と
云われます。今は桜井市の一部ですが、文字通りの山里です。
 谷底を縫うように道が走ります。古くから伊勢へ抜ける主要路でした。その道も山も
埋め尽くして、雪が降り積もります。若き日、近江へ旅立つ穂積皇子を慕って但馬皇女
は詠いました。あれから約二十年、あの世へと旅立った但馬皇女を偲んで、今度は穂積
皇子が詠います。「雪よ、あまりたくさん降ってくれるな。但馬皇女が眠る吉隠の猪養
の岡が寒いだろうから・・・・・・」。
 
 奈良時代に編纂された『万葉集』は、元々漢字ばかりで書かれていました。その読み
方が難しい。阿米アメとか名津蚊為ナツカシのように当て字を使うかと思うと、漢字の意味を
採って「情」を「こころ」と読ませたりします。それが「山上復有山」は、山の上にま
た山があるので「出イヅ」と読むなど、まるで謎々(クイズ)です。平安時代でさえ、一
般の人には読めなくなっていたと云います。
 以来、これらの歌を正しく読むために、どんなに多くの人達が苦労して来たことでし
ょう。写本によって文字の違う歌も少なくありません。この穂積皇子の一首も、最後の
一句を巡って議論の多い歌です。
 『万葉集』巻二の写本としては、平安中期の藤原定信筆と伝えられる「金沢本万葉集
」が優れており、これの本文は「寒為巻尓」と読めます。そこで「寒からまくに」説が
優勢ですが、他の写本は、殆どが「塞為巻尓」 − これですと「塞セキなさまくに」とな
ります。「墓への通い路をさえぎるだろうからに・・・・・・」。
 
 何ドレが猪養の岡か、何処に但馬皇女の墓があったのかは、今では分かりません。国道
端の道標を頼りに、其処から山道に入りますと光仁天皇(七七〇年即位)御母の吉隠陵
へ至ります。急な坂を辿って行きますと、見事な桧の木立の間に、二百五十余段の石段
が真っ直ぐに伸び、その上が陵ミササギでした。
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