018 「埴安ハニヤスの池」
○埴安の 池の堤ツツミに 隠沼コモリヌの
行方を知らに 舎人トネリはまとふ
柿本人麿・巻二 − 二〇一
「知りまへんなあ。もっと東の方の小さい池と違いますか」と云う返事です。香具山
の麓、啼沢ナキサワの杜モリの近くで、付近の人に「埴安の池」の在処を訊いて見たときです。
本で得た知識では、どうも立ち止まって話しをしている辺りが、埴安の池であった処ら
しいのですが・・・・・・。長い年月に自然が変えた地形だけに、住む人々の心もそれに順応
して、あまり印象に残らなかったのでしょうか。とにかく何もありませんでした。一面
の畑は香具山の中腹付近まで這い上がり、池らしい跡は見当たりません。ただ一つ印象
に残ったのは、啼沢の杜の南側に造られた大きな鶏舎の群れでした。
十市皇女の死を悲しんだ高市タケチ皇子にも、やがて死が訪れました。このとき、或いは
高市皇子に仕えたこともあるかも知れない柿本人麿は『万葉集』最長の挽歌を捧げて嘆
きました。その長歌に続いて詠われたこの歌も「高市皇子が亡くなられたので、埴安の
池の水の行方が分からないように、舎人等は、これからどうすればよいか分からずに途
方に暮れている」と云う意味で、人麿も含めて、周りの人達の気持ちを表しています。
高市皇子は壬申の乱のときに天武帝側において大活躍した人で、後に太政大臣となり、
繁栄する持統天皇の藤原宮廷における中心人物でした。それだけに皇子の死が与えた衝
撃は大きかったが、それとは別に皇子の死は一つの象徴的な意味を持っていました。古
代的な共同体の時代は過ぎ去ろうとしており、律令国家が新しく始まりつつありました。
人麿はそうした変換期に生きた歌人でした。
人々は新しい時代に何か人に訴えたいものを感じ、その表現に戸惑うていました。人
麿は「古い時代」の神話、祝詞などに見られた民族の活力(エネルギー)を内蔵する決
まり言葉の豊富な知識を基に、新しい表現を見出したのでした。
人麿が「途方に暮れている」気持ちを託した埴安の池は、どんな池であったでしょう
か。生い茂った草木の中に、妖気でも湛えたような沼であったかも知れません。現在南
浦、北浦など、僅かに昔を偲ばせる地名が残っている他は、当時の面影は何一つありま
せん。数千羽の鶏の騒々しい鳴き声が幻想の世界へ入ることを妨げています。
啼沢の 杜に神酒ミワすゑ 祈れども
わが大君は 高日知らしぬ
檜隅女王・巻二 − 二〇二
啼沢の杜は埴安の池の辺ホトリの水の女神の社で、そのご神体は泉です。これも高市皇子
の死を悼んだ歌です。
高市皇子の墓は、王寺町の南の新木山古墳がそれと云われています。
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