017 「悲劇の皇女」
 
○山吹の 立ち儀ヨソひたる 山清水
 酌クみに行かめど 道の知らなく
                           高市皇子・巻二 − 一五八
 
 天武七年(679)十市皇女は亡くなりました。十市皇女は、天武帝が未だ大海人皇子と
呼ばれていた若き日、額田王との間に儲けた皇女でした。ところが、やがて額田王は大
海人皇子の兄の天智天皇の愛を受け、十市皇女も天智帝の子大伴皇子の許に嫁ぎました。
大伴皇子は流石に天智帝の子だけあって、詩人としての才名をも謳ウタわれていました。
壬申の乱はこのように入り乱れた愛情の糸を背景として起こったのです。
 十市皇女に執って、この乱は父と夫との争いでした。
 『扶桑略記』『宇治拾遺物語』などには、壬申の乱の伝説が記されていますが、それ
に拠りますと十市皇女は間諜(スパイ)活動をしました。鮒フナの腹に密書を入れて、こ
れを父の大海人皇子に送ったと云います。
 夫の死後、彼女は父君に引き取られましたが、その心境は複雑だったでしょう。『日
本書紀』は、律令官僚の史書ですので、この十市皇女の心境については一言も触れてい
ません。『万葉集』の左注に拠りますと、四年後の春、皇女が伊勢神宮へ参る道すがら、
乳母と見られる吹欠(草冠+欠)フキ刀自は皇女の幸せを祈って、皇女の立場で詠いまし
た。
 
 河上カハノヘの ゆつ岩群イハムラに 草生ムさず
 常にもがもな 常処女トコヲトメにて
                                 巻一 − 二二
 
 川の辺ホトリの霊岩には雑草が生えません。そのように、何時までも清い乙女でありたい
ものです・・・・・・。ですが、何か不吉な響きが漂う暗い歌です。
 
 この歌から三年後に宮中で皇女は急死しました。天武帝が斎宮参りに出発しようとさ
れる朝のことです。自殺であったらしい。天武帝の第一皇子として、壬申の乱にも十九
歳ながら一軍を率いた高市皇子は、『万葉集』の題詞に拠りますと、切々たる挽歌三首
に留めています。
 「山吹の花が咲く山の泉に、清水を酌みに行きたいけれど、その道が分からない」。
 黄色い山吹の花が周りを飾る泉とは、黄泉ヨミ − つまり「あの世」であり、其処へ訪
ねて行きたい、との気持ちを詠ったとも観られています。しかし、ただ「黄泉」を洒落
て表現したと観るには、余りにも鮮やかな面影(イメージ)があります。清らかな山吹
の花、その影を映している澄んだ水、それを美しい少女が汲んでいる・・・・・・。高市皇子
は、十市皇女より少なくとも五、六歳は年下だったと見られますが、壬申の乱後二人は
情を交わしていたとも考えられるのです。
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