013 「額田女王ヌカタノオオキミ」
 
○あかねさす 紫野行き 標野シメノ行き
 野守は見ずや 君が袖振る
                             額田王・巻一 − 二〇
 
○紫草ムラサキの にほへる妹を にくくあらば
 人嬬ヒトヅマゆゑに われ恋ひめやも
                           大海人皇子・巻一 − 二一
 
 天智十年(671)、大海人皇子は吉野へ去りました。額田女王は天智帝の病篤い近江の
都に在りました。或日、彼女は額田女王集を自ら操りました。中央集権政治への動向の
中で、漢文学の美しい詩文に飾られた近江の都では、わが国の歌も刺激を受けて文学意
識に目覚め始めていました。額田女王はその饗宴の華やかな存在であったのです。彼女
はふと、近江の湖畔蒲生野の絢爛ケンランたる宮廷薬猟クスガリの日の饗宴の歌に目を留めまし
た。三年前のことです。其処は紫草を栽培する禁園でした。天智帝も、かつての愛人大
海人皇子も群臣等も一緒でした。水蒸気に日の光は汗ばみ、紫草の花は開き、それは額
田女王三十半ばの夏の日でした。茜アカネの根は緋色の染料になり、紫草の根から採る紫は
赤味に匂っているので、「あかねさす」は紫の枕詞になりました。それは映えるように
美しい歌の遣り取りでした。
 「あかねさす紫草生うる禁園をあちら行きこちら行き、野守は見ませんの。そんなに
袖をお振りになって」「むらさきの色、はなやかになつかしい妹イモよ。そなたをもしに
くく思うなら、今は人妻のそなたゆえに、私が恋することがあろうか」。
 
 この大海人皇子との若き日の恋に彼女の宿した皇女十市トオチは、いま天智帝の皇子大友
の妃、幼い葛野カドノ王の母です。豊麗な女王には、二人の情を入れて燃えた、遥かな年
月が顧みられるのでした。
 その年の暮れ、偉大な帝王天智天皇は崩じました。その天智陵造営の何時頃か、近江
京宮廷の人々がその陵を去る日に、額田女王は詠っています。
 
 やすみしし わが大君の 畏きや み陵ハカ仕ツカはる 山科の 鏡の山に
 夜ヨルはも 夜ヨのことごと 昼はも 日のことごと 哭ネのみを 泣きつつありてや
 ももしきの 大宮人は 行き別れなむ
                                巻二 − 一五五
 
 蒲生野の饗宴後四年(672)、遂に吉野を発った大海人皇子は東国に兵を調えました。
近江の都からは、その子のうら若き武市皇子や、大津皇子等が脱出、合流して近江の都
を攻撃したのです。額田女王は、鮮やかな緋色が一瞬天上に輝くの見ました。
 額田女王とは誰か。律令帝国を正史『日本書紀』は、天武帝、鏡王の女額田姫王を娶メ
して十市皇女を生んだ、と記すのみです。
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