012 「吉野への道」
 
○み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪はふりける 間無くぞ 雨は降りける
 その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず
                            天武天皇・巻一 − 二五
 
 耳我の嶺とは何処か、吉野山中の金峰山、大和と吉野とを分かつ竜門山塊の中の細峰、
竜在峠間の尾根などを云う。飛鳥から吉野への道は、竜在峠乃至細峠、芋峠、壷阪又は
芦原峠越え、巨勢を回る車坂などがあり、芋峠越えはその最短距離です。芋峠へ、石舞
台から遡って南渕、栢森カヤノモリの部落を過ぎますと、道は飛鳥川源流の森の中へ続きま
す。葛ツヅラ折りの山道は、行けば行く程重苦しく、暗い思いに沈んで仕舞う道です。
 百済クダラ亡命の学者や技術者も入った近江京において正式に即位した天智帝は、大唐
の帝王を夢みながら、天智九年(670)全国戸籍庚午年籍、近江令制定など、中央専制政
治を推し進めようとしました。その天智帝の苦慮していたのは、帝位継承の問題でした。
近江遷都を民衆は恨み、風刺の童謡ワザウタが絶えず、火災も頻りに起こりました。そうし
た情勢の中で、天智帝は同十年正月、遂に大海人を措いて、二十四歳の大友皇太子を太
政大臣とし、これに譲位することを決意しました。
 
 しかしその年の八月、天智帝は病に倒れました。天智帝は動揺し、十月十七日弟の大
海人皇子を呼び、大海人に譲位の意を告げました。大海人皇子は一瞬沈黙した後、病と
称して断りました。「皇位は皇后に、皇太子は大友に渡すべきものです。私は今日出家
して、貴方のために祈ります。吉野に篭もって修行したい」。こう云って十九日、僅か
の供を連れて都を後に、吉野へ向かいました。重臣等が宇治まで送っただけでした。世
の人は虎に翼を着けて野に放ったと云いました。
 追手を警戒しながら、大海人皇子の一行は道を急いでその日の夕べ、冬枯れの飛鳥島
の宮(石舞台)に着き、翌二十日、山道を物思いに耽りながら吉野へ越えました。帝位
継承のこと、骨肉の相剋、額田女王の思い出など、芋峠の辺りには灰色の空から絶え間
なく雪や氷雨が降り続きます・・・・・・。
 この歌が何時作られたかは別として、壬申の乱前夜の、大海人皇子の苦悩の歌と云え
るのではないでしょうか。吉野の谷間には一体大海人皇子は、供の舎人等に、近江京に
帰りたいものは帰れと云いました。半ば留まり、半ばは去りました。
 
 み吉野の 吉野の鮎アユ 鮎こそは 島へもよき え苦しゑ 水葱ナギのもと
 芹セリと 吾アレは苦しゑ                       
                                 『日本書紀』
 
 近江京では大海人皇子を鮎に譬え、その苦しみに同情する風刺の歌が起こり始めてい
ました。
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