010 「三山歌サンザンカ」
 
○香具山は 畝傍ウネビ雄々ヲヲしと 耳梨ミミナシと 相あらそひき
 神代より かくにあるらし 古昔イニシヘも 然シカにあれこそ
 うつせみも 嬬ツマを あらそふらしき
                           中大兄皇子・巻一 − 一三
 
 この長閑ノドカな平野に、旨い具合に畝傍、耳成、香具(現在の地名)の大和三山は配
置されているものだと思います。それだからこそ、この土地は古代文化を育んだ処とな
ったのかも知れません。山一つ一つを見ますと、取り立てて云う程もない円錐形の死火
山と残丘です。「大和三山」という名前に惹かれて来た人には一見、幻滅感を味わせる
かも知れません。しかし、この付近を歩き回って、眺める角度によって変わる三山の絡
み合いを見るのは面白い。我々の祖先がときには親しみ、ときには神聖な山と感じてい
たと思いますと、ふと素朴な感傷に浸ることも出来ます。
 
 自然と密着した生活をしていた古代の人達は、この山々に「神」を感じ「人」を感じ
たのでしょう。この土地に限らず、各地に残る山争いの伝説がそれを示しています。そ
の伝説を踏まえて天智天皇は「香具山は、畝傍山を男らしく情深いと感じて、愛を得る
ために耳梨山と争った。神代からこうであるらしい。昔もそうであったからこそ、今の
世でも、一人の愛を争うことがあるらしい」と詠われました。
 「雄々し」原文には「雄男志」とあり、それを「雄々し」と読むか「・・・・・・を愛ヲし」
か「・・・・・・を惜ヲし」と読むかで意見は分かれています。それによって畝傍などが男性に
なるか、女性になるか、「三角関係」の在り方が変わって来るから面白い。
 山の高さから云いますと畝傍、香具、耳成の順となり、現代の感覚で云いますと一番
背の高い畝傍を男性と見るのが普通ですが、古代では未だ、母権制の名残があって、そ
う簡単には行きません。諸国にある男山、女山を見ても、女山の方が高い例が多い。
 江戸時代末期の橿原の国学者谷三山も、畝傍は頂きに聖なる水を湛えた女山であると
しました。
 
 歌にもありますように、一人の愛を複数の人間が争うことが昔からあっただろうと云
うことは頷ウナズけます。それによって、とかく縁遠く感じさせる古代人への親しみも増
して来ます。中大兄皇子がどんな気持ちでこの歌を作ったかは議論のあるところです。
古くから、初めに大海人の愛を受け、後に天智天皇の后となった額田王との関係を頭に
置いて解釈されています。このような意味の歌を漫然と詠む筈はありませんし、頷けな
いこともありませんが、断定は出来ないと思われます。真実は作者の中大兄皇子のみ知
ると云うところでしょうか。
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