008 「斉明女帝」
 
○山のはに あぢむらさわき ゆくなれど
 われはさぶしゑ 君にしあらねば
                           斉明天皇・巻四 − 四八六
 
 国鉄(現在のJR)掖上駅から東北へ1q、越智岡の斉明陵、ここ大和の山や丘の、殆
どが御陵なのです。暗く、侘びしい「死者の床」が、其処此処を埋め尽くしています。
 「山の端に、鴨カモが群がるように人々は賑やかにしている。でも私は寂しい。それが
貴方ではないのだから」。
 
 斉明天皇は、孝徳天皇の死後に即位、既に六十二歳の老女帝でした。古代政治史のク
ーデター、大化の改新に次いで、蝦夷問題始め、朝鮮の動乱、有間皇子事件・・・・・・世は
混沌としていました。新羅の攻撃を受けて急を告げる百済救済へ、老女帝自ら九州へ船
出したのは即位後六年、斉明七年(661)六十八歳のときです。
 中大兄(天智)・大海人(天武)両皇子等天皇家の主だった人達が付き従いました。
この間、途中の岡山県では大来皇女(大海人の妃大田皇女の娘)が生まれ、後の持統天
皇(当時十七歳の盧(盧偏+鳥)野皇女 = 中大兄の娘)も付き従っていました。皇女は
大海人との間に草壁皇子を生み、また大田皇女は大来皇女の弟大津皇子を生んでいます。
舒明、斉明両帝を頂点とする皇室系図の主要な人達がこの長征の最中サナカで産声を上げた
のです。
 
 熟ニギ田津に 船乗りせむと 月待てば
 潮もかなひぬ いまはこぎいでな
                              額田王・巻一 − 八
 
 万葉の名歌と云われるこの歌は、伊予(愛媛県)から博多に、天皇が向かわれたとき
のものでしょう。額田王が詠ったのではなく、斉明天皇の作と云われています。
 現在発掘調査を続けている板蓋宮イタブキノミヤや岡本宮、吉野離宮、そして香具山周辺に
多くの用水路を造るなど、女帝は開発にすさまじい腕を振るいました。この用水路を見
て、人々は「狂心のみぞ」と呼んだと云います。或いは、八歳の孫建王を亡くした悲し
みを紛らすためであったのでしょうか。そして長征半ばにして同年女帝は、筑紫の朝倉
宮において亡くなられました。後にこの朝鮮への長征は、白村江の戦いで日本軍が破れ
ることで終わりました。
 
 『万葉集』の題詞に斉明天皇作と記した歌は一つもありません。ですが、その作とも
見られ、また伝えられる歌は幾つかありくす。
 「斉明天皇は律令国家への道を指導した天智・天武両帝の母であるだけでなく、万葉
の母体であった」。そんな想いが頭を掠カスめるのでした。
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