007 「有間皇子」
○磐白イハシロの 浜松が枝を 引き結び
真幸マサキくあらば また環り見む
有間皇子・巻二 − 一四一
○家にあれば 笥ケに盛る飯イヒを 草枕
旅にしあれば 椎シヒの葉に盛る
同・巻二 − 一四二
有間皇子は悲劇の皇子です。その短い薄幸の生涯は、『万葉集』の中でも既に同情を
以て詠われています。孤独と憂愁に沈むこの若き皇子は、万葉版ハムレットとも云われ
ています。
父の孝徳天皇は、前帝皇極の娘間人ハシヒトを后キサキとしていました。ところが皇女は実の
兄の中大兄皇子と不倫の恋に落ちていたと云われます。当然起こる孝徳天皇と中大兄皇
子との反目、そして六五三年、中大兄皇子は母の皇極、弟の大海人皇子等を連れて、難
波宮から飛鳥川の辺ホトリに移りました
間人皇女も天皇を捨てて同行しました。天皇は間もなく失意のうちに亡くなられまし
た。皇極が再び斉明天皇として即位、。有間皇子十六歳のときです。勿論実権は中大兄
皇子が握っていました。幼少の皇子の目に映ったこれらの微妙な事情がやがて皇子の生
涯を宿命付けて行きます。
若くして父を亡くした哀しい運命の、そもそもの元と云いますと、継母の間人皇女の
背徳と、中大兄皇子の権力欲ではないか、然も、その伯父は今や絶大な実権者となりつ
つあります。皇位継承の順位者としての自分は一体どうなるのか − 孤独の日々の中で、
成長した皇子は悩みに悩み抜いたことでしょう。
斉明四年(658)、皇子はクーデターの意志を固めて来ました。それは中大兄皇子が蘇
我氏打倒の計画を練り始めたときと同じ、十九歳の秋でした。厳しい徴税や派手な土木
工事などで伯父の評判は良くない。折しも女帝は紀州の温泉に行幸、「時熟したり」と
皇子は考えたに違いありません。その頃蘇我氏の長老蘇我赤兄アカエ臣が謀反ムホンを勧めに
来ました。早速皇子は赤兄の家で密議を開きました。皇子の悲劇はこの瞬間に決まりま
した。赤兄の出現は、実は中大兄皇子の罠ワナでした。
「磐白の浜松の枝を引き結んで幸を祈る。もし命があったときには再び帰ってこれを
見よう」。捕らえられ、天皇の湯治先に護送される途中の歌です。中大兄皇子の前に引
き出されて、運命の決まるのを明日に控え、微かな望みを道祖神に託したのです。中大
兄の厳しい尋問に対して、「天と赤兄と知る。私は何も知らない」と悲痛な叫びを残し
て刑に就いたことは有名です。
報復を遂げて死んで行くハムレットに比べますと、有間皇子の悲劇は救いようもなく
哀れです。悲劇の主人公は、今の生駒町一分の何処かにひっそりと住んでいたらしい。
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