006 「忍坂オツサカ山」
○こもりくの 長谷ハツセの山 青幡アヲハタの 忍坂山は
走り出の よろしき山の 出で立ちの 妙クハしき山ぞ
惜アタラしき山の 荒れまく惜ヲしも
作者未詳・巻十三 − 三三三一
「泊瀬の山、青鈍色の忍坂山は、出で立って見る美しい山です。この心に沁みる山の
荒れるのが惜しい」。美しい女が見守ってくれた間は山の心も賑やかでしたのに、今は
その人は亡くなって、山はすっかり荒れています。人も山も霊魂遊離してうらぶれてい
ます、と云う挽歌です。
桜井市忍坂は、六世紀の鏡銘には固有名詞を表記した初期の万葉仮名として有名な「
意柴沙加オサカ宮」などでも知られますように、古くから拓けていました。忍坂から粟原・
倉橋、更に初瀬へかけて多くの古墳も見出されています。笹繁る雑木林に枯葉を踏む懐
かしい道です。
こもりくの 初瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走り出の よろしき山の
こもりくの 初瀬の山は
あやにうら麗グハし あやにうら麗し
『日本書紀』
この古曲は初瀬地方の山の生命を賛美したものです。生者の賛美、死者への悲嘆、こ
れらは元何れも「忍シノヒ」でした。生あるものを称え、死者を偲ぶのです。日や月の昇る
初瀬地方の古い祭の、死と復活の神秘 − 死の床の石棺が同時に豊饒の母胎なのです。
そんなところから生と死との交錯する山の情感が生まれたのではないでしょうか。何れ
にしてもこの二つの歌には、山の死と復活との観念が沈んでいます。この忍坂の山懐ヤマ
フトコロ、石位寺石佛の辺ホトリに、舒明帝陵の森があり、鏡王女などの墓があります。
玉くしげ おほふを安み 明けて行なば
君が名はあれど わが名し惜しも
鏡王女・巻二 − 九三
玉くしげ みむろの山の さなかづら
さ寝ずはつひに ありかつましじ
藤原鎌足・巻二 − 九四
鏡王女は、以前は鏡王の女であり、額田女王の姉かとも云われましたが、最近は舒明
帝の妹か、王女かと云われています。但し、舒明帝は近江息長オキナガ氏と関係が深く、忍
坂もまた息長氏と縁ユカリがあります。としますと、鏡王が近江鏡山付近の豪族であり、鏡
王女や額田女王はその娘であると云う旧説もなお捨てかねるところがあるように思われ
ます。鎌足に求められた鏡王女は、重く一抹の甘美を包んで詠い、老練の人は徐オモムロに
迫りました。「夜が明けて貴方が帰るなら、貴方の名は別として、私の名が惜しいのよ
」「妹イモよ、みむろの山のさねかづら、さ寝ずして、汝を抱き寝ずしては、わが生は遂
に有り得ないでしょう」。鏡王女は初め天智帝の寵され、やがて身ごもったまま鎌足に
賜ったと伝えられます。奈良興福寺は元彼女が病める鎌足のために発願したものでもあ
ると云います。
山陰ヤマカゲの道を登りますと、忍坂の枯柴山の山懐に、王女の墓と云う古墳があり、蒼
い松が心に残ります。
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