004 「若菜摘み」
 
○篭コもよ み篭コもち 掘串ブクシもよ み掘串ブクシ持ち
 この丘ヲカを 菜ナ摘ツます児コ 家告ノらせ 名告ノらさね
 そらみつ 大和ヤマトの国は
 おしなべて われこそ居ヲれ しきなべて われこそ座イマせ
 わにこそは 告ノらめ 家をも名をも
                          雄略ユウリャク天皇・巻一 − 一
 
 約四千五百首の上る万葉集の巻頭を飾る早春の歌、雄略天皇作と伝えられる求婚歌で
す。
 大意は「篭カゴよ、良い篭を持ち、土を掘る串よ、良い串を持って、この丘で若菜を摘
む娘よ。お前の家を教えよ。名を教えておくれ。大和の国は、私こそが総てを従え、一
面に治めている。私にこそ教えておくれ。お前の家も名も」。
 名告れば、求婚に応じたことを意味しました。名には魂が篭もっていると考えられて
いたのです。そして春を待ちかねての若菜摘みは古くからの求婚の機会でした。今も山
遊び、野遊びの風習が残っている地方は多い。
 『万葉集』が編纂されたとされる奈良時代から観て、雄略天皇は古代の英雄でした。
桜井市黒崎の外れ、初瀬川北岸の天ノ森、或いは南岸の山間ヤマアイにある岩坂辺りに雄略
天皇の朝倉宮があった、と伝えられています。
 白山比羊(口偏+羊)ヒメ神社の神社の東側の小道の中腹で振り返りますと、西へ向か
って谷が開け、大和平野へと初瀬川が白く光りながら流れて行きます。この辺りが山腹
でしょうか。若菜を摘む美しい乙女に、雄々しい若者が求婚したのは・・・・・・。
 しかし、この歌は一人の人間に一度限りの経験から生まれたものではないでしょう。
多くの若者の想いが積み重なり、長年の間詠い継がれて、このように素朴で、大らかな、
しかも強い表現になったものと観られています。
 
 なお「告る」ことは即ち即位の宣言であり、終句「わにこそは」を「われこそは」と
読むときは、この歌には即位と若菜摘む御懸ミアガタ(料地)の乙女への求婚、同時に聖婚
と云う儀礼の印象があるとする解釈もあります。
 雄略天皇の求婚の伝説としては『古事記』にある赤猪子の話に、「川の辺ホトリで美しい
少女を見初め、求婚しておきながら少女が八十歳になるまで打ち忘れていた」と云う如
何にもおおどかな話があります。
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