51a 鹿角の紫根染と茜染(その一)
〈贈答用品〉
往古は紫色を禁色キンジキとして朝廷以外に用いることが許されなかったが、年代を下る
につれて漸次公卿・大名などに拡がり、近世に至っては地方権力者にまで及ぶようになっ
た。しかしそれでも高級品たるを免れず、一般にはまだまた縁遠い存在であったと思わ
れる。花輪南部家『諸御用留帳』から、嘉永〜慶応に至る二〇年間に花輪南部吉兵衛家
の盛岡屋敷へ届けられた分を列記して見る。
嘉永元・11 茜 1反 静心院様御用
12 紫絞り 2 奈良宮司殿謝礼
2・ 4 紫木綿 20
5・ 4 紫 6 江戸大坂御用
4 紫 8
10 紫 2 仕送物
12 紫 3
12 紫大絞 1 大奥御用
安政 5・ 8 紫大絞 2
6・ 2 紫 2
3 紫 2
7・ 1 紫 7
万延元・ 4 茜 1
9 紫 3
文久 2・ 6 紫紬糸 1
7 紫絹 2 旦那様御夜着
慶応 2・ 7 紫木綿 5 役人二人へ御土産
8 紫絞り 2 御挨拶の為
3・ 2 紫 4
8 紫 3 江戸登衆土産
4・ 4 紫 1 役人への礼
この合計は茜染二反、紫染七十反、そのうち旦那様の夜着用だけが絹物となっている
ほかは全て木綿である。
〈紀行文に現れた紫・茜〉
(一)天明五年(1785)三河の人菅江真澄が初めて鹿角を訪れた際の紀行文『けふのせ
ばぬの』の一節に「花輪の里に出たり(略)此の里をはじめ此のあたりのわざとて紫染
るいとないあり。これを染めるに必ずにしこほりてふ木の灰をさすという。なにくれと
"こ"の字のみ付て物言うを聞ておなじう"野に出てひかしこにしこ掘り貯めて(東こ西こ
掘り貯めて)染めるとぞ聞くかづのむらさき"」と詠んだとある。その後文化四年(1807
)に再び鹿角を尋ねた際に写生した紫根を搗く図は、現在行われている根搗き作業と寸
分違っていない。
(二)天保十三年(1842)江戸の狂言作者船遊亭扇橋が、仙台から南部を経て秋田まで
旅行した際の紀行文『奥のしおり』に、旧暦六月上旬鹿角へ入り、七日から十日まで花
輪に逗留中「此所赤根染紫根染名物にて家々に染物いたし、鹿の子らせん絞り、其外無
地色々まことに見事にて御座候」と挿絵まで描いて紹介している。
(三)嘉永二年(1849)海防家松浦武四郎は『鹿角日誌』毛馬内の項で次のように述べ
ている。「紫木綿の名物にて市町染屋多し。何れも巨屋にして美々しく見ゆ(略)尤も
紫根は此在中より花輪、当所之両所に出、其品至而上品と云う」。
このように、全国を股にかけた人達がここ鹿角に来て紫染・茜染を特に大きく採り上げ
ていることは、或は他所では耳目に触れることのなかった証左かも知れない。
[次へ進んで下さい]