33 茶碗レクチャー5
 
〈佗茶に帰化した茶碗〉
 
 日本で焼かれた茶碗ではありませんが,その作風に共感を持ち,茶碗としての良さを
見出したのは,それを生んだ国の人々ではなく,佗ワビに生きた茶人達であり,今日に至
るまで永い生命を保ってきたのも,茶の世界にあったからこそということから,わが国
で高麗コウライ茶碗と呼ばれている朝鮮の茶碗に,佗茶に帰化した茶碗という言い表しをし
てみました。
 中国で宋時代に焼かれた青磁セイジや天目テンモクの茶碗も,鎌倉時代以来茶の湯で大いに
賞翫ショウガンされましたが,それらは帰化した茶碗というほど,佗茶の場で深い共感を得
ることはなく,何時の時代,如何様な場でも,宋時代の作品として生き,完美な様相は
中国陶芸の粋として評価されてきました。その格調高い正格ショウカクの作風は,佗の茶とい
うような閉鎖的な場では,寧ろ敬遠される程普遍的な誰にも分かる美しさであるといえ
ます。従って,永く日本に伝来したものでも,高麗茶碗のように佗茶の生活の中に入っ
て,その美意識の中で棲息するというようなことは全くありませんでした。東山時代も
桃山時代も,現代も,曜変ヨウヘン天目の美しさは何時も変わらず,観る者使う者の好みの
変遷が変わっただけで,佗の茶の最盛期でした桃山時代ですら,曜変の尊厳は聊かも傷
付けられることはありませんでした。そしてまた,今日でも世界の宝物として輝いてい
ます。
 ですが,高麗茶碗は違います。これは矢張りものの正格を尊ぶ厳しい美意識の場では,
高く評価されることはまずありません。大井戸オオイドの茶碗と曜変天目とでは,陶芸の質
そのものが同列の評価を加えられるものではありません。曜変と比べれば美そのものの
本質が全く異なっているのです。井戸茶碗は,飽くまで佗の態という特異な美の世界で
なければ,忽ちその位は失われてしまうものといえます。しかし興味深いことに,我々
日本人の美意識の本質の中には,曜変天目よりも,井戸茶碗に美を見出そうとするとこ
ろの働きが潜んでいたのであり,そしてそうした心の働きが大いに目覚めつつあったと
きに,堺の町衆によって高麗茶碗が見出され,人々の心は,忽ちこの麁相ソソウな姿の茶碗
に,曜変天目では充たされることなく,じっと心の何処かに棲息していた美の感情を激
しく移入したのでした。室町時代,応仁の乱の後,世は麻の如く乱れていたときであり,
そうした美の世界の先達は,堺や京都の町衆達でした。
 天文23年(1554)「茶具備討集サグビトウシュウ」を著した堺の町人宗金ソウキンは,「高麗茶
碗」を瀬戸天目・高中(交趾コウチ)茶碗・南バン芋頭・信楽・備前などとともに,時の茶
碗として賞揚していますが,それは信じられる茶書に高麗茶碗が現れた最初でした。と
しますと,高麗茶碗が朝鮮から渡ってきて,佗茶の茶碗として使われるようになったの
は,大体天文年間頃からのことと考えられ,茶人では武野紹鴎ジョウオウが堺にあって活躍
していた頃でした。更に10年程経た永禄17年には「分類草人木ブンルイソウジンボク」に「当時
ノ数寄ハ唐物ハイラヌ様に成タリ」とあって,高麗茶碗や瀬戸茶碗,又は信楽・備前の
茶壷や水指は,唐物に替わって茶の道具の主流となったことが窺われます。高麗茶碗に
対する共感が,曜変や油滴ユテキ天目を過去の名宝としてしまったのであり,帰化した茶碗
は,どっかりと根を降ろしてすっかり日本人の茶碗と化したのでした。
 
 古来茶の世界で賞翫された高麗茶碗(朝鮮で高麗時代末期から李朝時代にかけて焼か
れた茶碗を,当時朝鮮のことを高麗と呼んだことから,総称して高麗茶碗と呼びました。
)は,可成りの種類に上っています。そしてそれらを製作年代によってほぼ大別します
と,豊臣秀吉の朝鮮侵略の文禄慶長の役以前のものと,以後のものに二分することがで
きます。戦役以前のものは,朝鮮の人々の日常の雑器が主でしたが,戦役以後は,日本
の茶人の好みによって朝鮮で焼かれたものが多いです。そして矢張り高麗茶碗として佗
た趣きの深いのは,役以前に帰化してきた茶碗たちです。そうした高麗茶碗の代表的な
作品を鑑賞してみましょう。
 
 △大井戸茶碗(喜左衛門キザエモン)(国宝 狐蓬庵)
 高麗茶碗の良さというか,味わいというものは井戸茶碗に尽きるといわれています。
ということは,茶人たちが高麗茶碗に求めた美しさは,井戸茶碗のような作振りのもの,
即ち飾り気のない素朴な姿,全く華美でない渋い落ち着きのある釉色,そして一つの姿
として茶碗を観るとき,茫洋とした大きさと,捉えどころのない風格が感じられる茶碗
ということになります。それは正に大井戸茶碗の姿であり,「喜左衛門」はその全てを
備えた茶碗といえます。「喜左衛門」を観ていますと,伸び伸びとした拘りのない姿を,
中央が竹の節のような高台がしっかりと受けているのが印象的ですが,その伸び伸びと
した轆轤ロクロ目は,井戸茶碗の最大の特色であり,竹節状に削り出された高台も,節立っ
ているがために,全体の姿を引き締まったものにしていることから,矢張り大きな見所
の一つに挙げられています。釉は灰褐色のいわゆる井戸の枇杷色ビワイロ釉と呼ばれる釉薬
ユウヤクが厚く掛かり,高台廻りは梅華皮カイラギ状に縮れています。このかいらぎはそれこそ
見方によっては不潔な感じをもたせますが,全体の渋く静かな色感の中に,唯一つの激
しい景色であるといえ,茶人はそうした変化に目を着けたのでした。しかし,このよう
な井戸茶碗は,佗の草庵の茶室に一度も足を踏み入れたことのない人には,さして共感
の持てるものではないかもしれません。井戸茶碗を含めた,素朴な作振りの高麗茶碗は,
飽くまで使うために採り上げられたものですから,それが使われる場を知らずして美し
さや良さを汲むことは難しいです。
 
 △三島ミシマ茶碗(二徳三島ニトクミシマ)・刷毛目ハケメ茶碗(合浦ガッポ)
 井戸茶碗とともに,最も早くから帰化してきた茶碗に三島と刷毛目があります。何れ
も李朝リチョウの前期に南鮮の至るところで焼かれた茶碗で,殊に三島は,高麗時代の末期
から李朝初期にかけての朝鮮の代表的なやきもので,単なる雑器というものでもありま
せんでした。李朝初期から文禄慶長の役頃まで焼いていたらしく,その作風にも古調を
持つものとそうでないものとがあり,彫三島ホリミシマと呼ばれている茶碗は,天正から文禄
・慶長頃に焼かれたらしいですが,古三島コミシマと呼ばれている茶碗は初期のものと考え
られ,「二徳三島」は,著者が見た古三島の中では白眉といえる名碗です。やや浅く,
端反ハタゾりの茶碗の姿は,典型的な古三島の様式で,内・外の側面には「三島」という
名称の謂れとなった,古い暦をみるような一種の象嵌ゾウガン 文様が表されています。茶
碗の姿の均衡,即ち口径に対しての高さ,口径に対して高台の径,総高の中での高台の
高さなどの比率が,誠によく整っているのが好ましいです。矢張り数多く無意識に造ら
れるうちに,自ずから生まれた絶対値であったといえましょう。そして高麗茶碗には,
このような無作為の中から生まれた,ある意味での完全さというものがその美しさの基
本となっています。
 刷毛目の茶碗も,三島とよく似た作風のもので,三島は彫ホリ文様をつけた後に白化粧
を施し,そして透明の釉薬をかけて焼上げていますが,刷毛目は素地キジの上に刷毛で白
化粧を施した後透明釉を掛けています。刷毛目が一種の文様的な効果を上げて,素朴な
うちに軽快感に充ちた刷毛目茶碗が生まれる訳です。「合浦」は,そうした刷毛目の軽
快に作風を代表するもので,如何にも瀟洒な味わいがあります。しかし同じ高麗茶碗で
も井戸とは全く違った趣であるところに,刷毛目の特色があるといえます。昔から刷毛
目が濃茶コイチャ茶碗ではなく,薄茶ウスチャ茶碗に用いられているもので,茶碗の持つ軽快感
が薄茶に相応しい感じであったからでしょう。
 
 △ととや茶碗(広島)・柿の蔕ヘタ茶碗(大津)
 高麗茶碗の中にも,可成り変化に富んだ景色をした釉膚クスリハダのものがあります。中
でも蕎麦やととやはその代表的なもので,茶碗の中央から一方は赤味に,一方が青味に,
片身替わりに窯中で変化したものがありますが,それは火の前と火裏ヒウラとの関係ででき
る現象です。ととやの「広島」は,そうした変化に富んだ景色の美しい茶碗の一つで,
釉の味わいばかりでなく,この種の浅い作振りのととや茶碗の中では,著者の見た限り
では姿も取り分け優れています。殊に高台から高台周りかけての削り出しは誠に見事で,
軽妙な中に力も感じられ,それは高麗茶碗のみが持つ良さで,言葉ではなかなかいえな
い美しさです。一体にととや茶碗は釉掛かりが井戸程厚くなく,釉膚の硬い趣のものが
多いですが,この茶碗は釉膚の柔らか味も充分です。
 数多い高麗茶碗の中で,これこそ佗ワビ・寂サビの極地のものというに相応しい茶碗の
柿の蔕があります。「大津」(藤田美術館)は,伝世の柿の蔕茶碗の中では,これまた
著者の最も好きな茶碗で,何よりももっこりとした内包的な姿に魅せられます。佗茶の
茶碗として,これ程奥深い味わいを持ったものはないといっても過言ではありません。
その素朴で静寂な趣は,利休好みの長次郎茶碗に影響を与えたのではないかと想わせる
ものがあります。佗た趣も,ここまで深まると最早言葉では言い表せるものではなく,
茶碗を手にしたときに汲むよりほかはないのではないでしょうか。
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