32a 茶碗レクチャー4
 
 △乾山ケンザン
 仁清が完成した優美な色絵京焼は,元禄という爛熟期を向かえた江戸時代の人々の好
みに適したに違いなく,京都の八坂や粟田の窯場では色絵の陶器が盛んに焼かれるよう
になりました。そうした中にあって,仁清に私淑して37歳から作陶の生活に入り,仁清
とは違った色絵の世界を拓いたのが尾形乾山でした。
 乾山は元禄12年(1699)に洛北の鳴滝ナルタキに窯を築き,仁清の子の猪八イハチを助手とし
て作陶を始めましたが,彼が雁金屋という当時京都で第一流の呉服商の家に生まれ,天
才的な画家であった光琳コウリンを兄に持っていたことは,彼の作風に大きな影響を及ぼし
ました。殊に初期の作品には,光琳が直接絵筆を執ったものがあり,また装飾的な意匠
でも,光琳が考案したものが可成りあったと考えられます。勿論乾山自身も可成りの絵
心がありましたので,大いに絵筆を走らせたに違いありません。そうしたことから,乾
山のやきものは陶画に主体を置いたものとなりましたが,彼は絵付がより効果的に,恰
も紙の上で絵筆を走らすような味わいに現れることを狙って,素地の上に白泥で白化粧
をし,その上に絵を描くという,独特の手法を考案しました。これは仁清にも見なかっ
たもので,乾山独自のものであり彼が最も得意とした作風でした。
 そしてまた,詩情の深かった乾山は,墨絵の詩画賛をそのまま再現した銹絵付の茶碗
や皿を盛んに焼きましたが,「霞に鎗梅ヤリウメの絵茶碗」,「滝山水タキサンスイ絵茶碗」はそ
の代表作で,絵の裏面にそれぞれ詩文が書かれています。鎗梅の図も乾山が好んで描い
たものでした。
 
 △仁阿弥道八ニンナミドウハチと永楽保全エイラクホゼン・和全ワゼン
 仁清の優美,詩情の乾山という,二人の特色ある作家を得た京焼は,その後益々繁栄
しましたが,殊に幕末文化文政期に至って,奥田穎川エイセン・青木木米モクベイ・仁阿弥道八
・永楽保全など優れた陶工が相次いで輩出し,色絵の交響楽を奏でることとなりました。
 しかしこの時代に作られた抹茶の茶碗は,独創的に作風のものは少なく,御本茶碗や
伊羅保・三島などの高麗茶碗の写し,仁清・乾山の写し,更に中国で明末に焼かれた古
染付や祥瑞ションズイの写しなど,過去の作品で当時人々に愛翫されて人気のあった茶碗の
写し物が数多く焼かれました。
 幕末京焼の名工で,優れた茶碗を焼いたのは仁阿弥道八と永楽保全でした。青木木米
も名工として声価は高いですが,彼は文人趣味豊かな人でしたので,矢張りその作品の
多くは煎茶道具でした。しかし抹茶碗も皆無というのではなく,ときたま三島写しや染
付の茶碗を見かけたことがあります。
 仁阿弥道八は,天明3年(1783)に京都に生まれました。その生家は矢張り陶工で姓を
高橋といいました。従って彼は二代目高橋道八でしたが,後に「仁」の字と「阿弥」の
称号を仁和寺と醍醐寺三宝院の両門跡モンゼキから許されましたので,通称仁阿弥道八とい
いました。京焼の名工の中では最も腕の立った人で,青磁・染付・色絵・楽などあらゆ
るやきものをこなしています。しかし,陶器が彼の陶芸の主流をなすもので,乾山や高
麗コウライものの写しに優れたものが多いです。保全もそうですが,写しものといっても単
なる模倣的な写しではなく,過去の名作の意を汲んで,それに彼なりの作為を凝らして
いることが特色です。中でも乾山の意匠を基本とした色絵の雲錦手ウンキンデは,仁阿弥独
特のものとして後世の作品に影響を与えています。抹茶碗では「御本立鶴タチツル」の写し
と,その立鶴の意匠を黒楽で表した「黒楽茶碗」(東京国立博物館)は,仁阿弥の代表
作とされています。安政2年(1855)に没しました。
 永楽保全は,京都で土風炉師として千家十職でした西村家に養子に入った人で,寛政
7年(1795)に生まれています。西村家は代々善五郎と称し,彼も十一代善五郎でした
が,紀州徳川家の御用窯でした偕楽園カイラクエン焼に大いに助力したことから,藩主徳川治
宝侯より「永楽」の銀印を賜りましたので,それに因んで永楽と改姓しました。
 仁阿弥道八が乾山の作風を慕ったのに対して,保全は仁清の作風に共感を抱いたので
しょうか,仁清の写しにかけては第一人者でした。他に交趾コウチ焼風の陶器や,祥瑞写
し,古染付写し,金襴手などを焼いています。保全もまた,写しとはいっても純然とし
た模倣ではなく,いわゆる仁清の意を倣ったものでした。そして茶碗の姿や文様など,
誠によくその意を汲んでいます。嘉永7年(1854)年に没しました。
 保全の子の和全も,父に劣らない良工で,矢張り仁清の写しに巧みでしたが,保全の
ように仁清の柔らかい釉膚を再現するに至っていません。彼は他に金襴手をよくしまし
た。他にも古くから,野神焼・修学院焼など,更に清閑寺焼・小倉山焼などで茶碗が焼
かれています。
 
 △各地の茶碗
 今までに述べた茶碗は,それぞれの時代の代表的な作品でしたが,江戸時代に入って
から数千の窯が興り,盛衰を重ねてきて,それらの中で,一つとして茶碗を焼かなかっ
た窯はまずないといっていいでしょう。ですから日本中を丹念に歩いて廻りますと,い
ろいろの作振りの茶碗・いい茶碗・悪い茶碗に出会うに違いありません。思いもかけぬ
名品もありましょうし,また珍品にお目にかかることもありましょう。それらの中で手
元にある資料から特色のあるものを挙げてみました。
 「絵瀬戸 安南写し茶碗」は,恐らく江戸初期に尾張の御深井オフケで焼かれたと考えら
れますが,或いは安南写しであることから,元インゲンイン焼といわれるものに当たるので
はないかとも推測されます。
 「伊万里染付天目茶碗」は,これまで茶の世界ではあまり注目されませんでしたが,
初期の伊万里染付の茶碗で,天目形茶碗であることは,明らかに抹茶碗として作られた
ものと考えられます。勿論二十・三十と焼かれた数茶碗の一つで,寺などで使われたも
のではないでしょうか。これは窯跡からの発掘品です。
 「志賀 染付茶碗」(東京国立博物館)は,対馬の志賀で寛政頃焼かれたもので,染
付の山水の絵は,なかなかによく描けています。南京ナンキン染付に似ていますが,矢張り
有田の陶工がきて焼いたものでしょう。
 「薩摩 ばらの絵茶碗」(東京国立博物館)は,古薩摩については既に述べましたが,
幕末に京焼の影響を受けた,優美な作風の色絵陶器が焼かれ,色絵薩摩又は献上薩摩と
いって珍重されています。この茶碗はその一つですが,聊か茶味には乏しいです。
 「高松焼 桜楓文サクラカエデモン茶碗」(東京国立博物館),高松も慶安年間に紀太理平キノ
タリヘイが始めた窯でした。その後代々業を継いで藩の御用品を焼きましたが,この茶碗は
京都の三代道八に陶法を習った九代目の紀太亀之丞カメノジョウの作と考えられるもので,桜
楓文は,仁阿弥道八の雲錦手を倣ったものです。高台内に高松焼の高を採った山形の「
高」字の印が捺しています。
 「出雲 楽山ラクザン焼 権兵衛茶碗」 出雲楽山焼は江戸初期慶安年間に始まった窯
で,倉崎権兵衛という名工が延宝エンポウ頃に来て,伊羅保やととやなど高麗茶碗の写しに
優れたものを焼き,出雲の権兵衛といいますと,楽山焼というよりも一般によく知られ
ています。
この茶碗は,権兵衛作と後の楽山焼の窯元でした長岡住右衛門が極めている茶碗で,伊
羅保写しですが作振りは優れています。
 「偕楽園 交趾釉コウチグスリ茶碗」(東京国立博物館) 偕楽園焼は,文政頃に紀州侯徳
川治宝の御用窯として始まった窯で,京都から保全,仁阿弥道八などの名工を招いて作
陶に当たらせました。偕楽園焼の特色は,中国で明時代に焼かれた法花ホウカ(我国では俗
に交趾焼と呼ばれました)の作風を模したことで,茶碗は殆ど見ませんが,これは珍し
い一例です。
 「赤膚焼 奈良絵茶碗」(東京国立博物館) 赤膚焼は遠州七窯の一つに挙げられて
いますので,その創始は古いのでしょうが,一般によく見かけます赤膚焼は何れも江戸
中期以後のもので,奈良絵を色絵で表したこの茶碗は幕末頃の代表作とされています。

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