32 茶碗レクチャー4
〈和物茶碗〉― その変遷と種類 その3―
△のんこう
本阿弥ホンアミ光悦コウエツが「今の吉兵衛は楽の妙手なり」といった,吉兵衛即ち道入を「
のんこう」と呼んでいます。伝えによりますと千宗旦から「のんこう」という銘の花生
を贈られ,それに因んで「のんこう」の異名が付けられたといいます。吉左衛門常慶ジ
ョウケイの子として慶長4年(1599)に生まれ,明暦2年(1656)に58歳で没しました。
のんこうの時代から,楽焼は新しい時代に入ったといえます。のんこうは以前の楽焼
を俗に古楽コラクと称したりしますが,それは楽茶碗の作風がのんこう以前と以後とでは大
いに異なるからで,最も大きな変化は,窯が改良されたためか古楽よりも焼成火度が高
くなり,黒楽の釉が艶のある漆黒色になったことであったといえます。
また茶碗の作風が,従来の利休形を基本としたものから脱却して,独特の個性的な作
為のものを作るようになったことで,これには光悦の影響が強く作用していると思われ
ます。
しかしのんこうとても,初めから独特の作風の茶碗を焼くようになったのではなく,
初めは矢張り古楽風の総釉ソウグスリ(露胎部を残さず全体に釉を掛けたもの)のものも焼
いていましたが,後に高台廻りを土見せツチミセにして,高台内にきっぱりと「楽」字の印
を表した「四方ヨホウ」のような茶碗を焼くようになりました。のんこうの茶碗の作振り
は,一体に軽妙で技巧の勝ったものが多く,黒釉を口辺に厚く掛けて,その釉なだれが
垂幕のように巡った幕釉マクグスリを意識してやったのものんこうであり,白い釉抜けを作
って装飾的な効果を求めたのも彼でした。「千鳥」(藤田美術館)は,そうしたのんこ
うの特技を全て備えた茶碗です。しかしのんこうの茶碗の最大の美点は,見込が広く大
きく作られて,誠に茶を点てるのに良く出来ていることでしょう。赤楽には不思議に良
作が少ないですが,「是色ゼシキ」は出色のものといえます。
△一入イチニュウ・宗入ソウニュウ
一入はのんこうの子で,元禄9年(1696)に59歳で没しました。のんこうがあれほど
の妙手であり,個性的な作風の茶碗を作ったのに対して,一入は,再び内包的な古楽の
気風をその作品の基調としたように思われます。従って一入の作品は共通して温和な慎
ましい趣のものが多いですが,一入独特の技としては朱釉シュグスリが一般に知られていま
す。それは黒釉の中に朱色の斑文が天の川のように現れたものです。そしてまた一入の
茶碗には一体に総釉のものが多いです。
宗入は一入の養子で,京都の油小路二条上ル雁金屋カリガネヤ三右衛門の子であり,乾山
と血縁の間柄でした。享保元年(1716)に53歳で没しています。宗入の黒楽茶碗の特色
は,荒々しいかせ釉薬を掛けたもので,独特の風格があります。また在印(印を捺した
もの)の茶碗は比較的少ないです。
△左入サニュウ・長入チョウニュウ・得入トクニュウ・了入リョウニュウ
吉左衛門以後,楽焼の人々は,吉兵衛(のんこう)を除いては,代々吉左衛門を襲名
して通称とし,剃髪後,一入・宗入などと名乗り,のんこう以後は代々異なった字形の
「楽」字の印を用いています。
左入は,宗入の養子で,油小路二条東入大和屋嘉兵衛の二男でした。元文4年(1739
)9月25日に55歳で没しました。なかなかの名人であったらしく,写し物に巧みで,左
入の光悦写しには,可成りの作振りのものがあります。赤楽を好んで焼いたのか,左入
の茶碗には比較的黒楽は少ないです。
長入は左入の子で,明和7年(1770)に50歳で没しました。
得入は,長入の長男でしたが病弱のためあまり作品もなく,得入の茶碗といわれてい
るものでも,弟の了入が作ったのではないかと思われるものがあります。安永3年(
1774)に30歳で没しました。
了入は,得入の弟で,宗入以後では最も優れた作者であり,また目利きでもあったら
しく,楽地の極めを多くしています。天保5年(1834)79歳で没しました。
△朝日アサヒ
伝えによりますと,慶長の頃に奥村次郎右衛門(或いは藤作ともいわれている)が京
都の宇治の朝日山の下に開窯したのが始まりであったといわれ,遠州七窯の一つに数え
られていますが,その沿革については判然としないことが多いです。専ら茶碗と茶器を
焼いたと伝えられますが古い朝日で茶碗以外のものは殆ど見たことがありません。茶碗
には瀟洒な作振りのものが多く,如何にも遠州好みというに相応しいものがあります。
「老浪オイナミ」と「胴紐茶碗」はその代表的なもので,御本茶碗を倣った薄手の作行きに
特色があり,典型的な和物の薄茶碗として,茶人の間で声価が高いです。殊に「胴紐茶
碗」は,朝日中第一の優作といわれていますが,見るからに遠州から宗和頃即ち江戸前
期らしい作行きです。
△仁清ニンセイ
桃山時代から江戸前期に至る日本の茶碗の変遷を振り返ってみますと,利休好み・織
部好み・遠州好みなど,時代の茶風を指導した茶人の好みが,そのまま時代の流行の茶
碗としもてはやされていたことが分かります。そして楽焼を除いては,全て集団的な陶
工が作陶していた窯場のもので,一人の個人的な作者の個性的な作為が顕著に表れたも
のは殆どありませんでした。ところが江戸時代に入り,光悦コウエツの影響を受けたのんこ
うが一人の作者としての意識に目覚めたことは,他の陶工達にも次第に及ぼしていきま
した。殊に京都のような文化の水準の高い都会では,個性的な作風が好まれる傾向を示
したので,次々と名工が出現していきました。そうした中にあって,最も目覚ましい活
躍をしたのが仁清でした。
そしてまた,仁清の助言者に,当時京都にあって第一流の茶人であった金森宗和カナモリ
ソウワが存在したことは,仁清の作風に好みが反映することとなり,後世仁清といえば宗
和,宗和といえば仁清といわれる程,表裏一体の存在でした。ここに集団的な窯場と指
導者という関係ではなく,一人の作者と一人の指導者という,利休と長次郎に似た結び
付きが再現したのです。その場合,長次郎も仁清も京都の作者であったことは興味深い
です。
仁清のやきものの主体が,色絵の陶器であったことは,日本の茶碗に新しい彩りを加
えることになりました。ひいては宗和の茶の湯にも,これまでにない彩り豊かな道具が
提供され,「姫宗和ヒメソウワ」といわれる優雅な茶風を展開したのでした。
仁清の茶碗は,今も述べましたように色絵が主体をなしましたが,色絵の他に銹絵物
サビエモノや信楽土の上に青緑色の釉を流し掛けしたものがありますが,矢張り何といって
も仁精の面目躍如としているのは色絵の茶碗でしょう。
信楽土を使った茶碗は別にして,色絵の茶碗には御室オムロ土と呼ばれる肌理キメの細かい
白い土が用いられます。優美な作風は,まずこの柔らかい胎土タイドを選択することから
始まったといえます。次にその上に掛かった細かい貫入カンニュウのある卵殻ランカク色の透明
性の釉薬ウワグスリも,素地キジの柔らかさに比例して,少し潤いを帯びたような味わいの柔
らかい釉膚に焼上げられ,そしてその上に色絵の文様が描かれ焼付けられています。
仁清は後水尾上皇の叡覧に供する程轆轤ロクロ造りの名手でしたから,彼の手になった茶
碗は何れも,薄くそしてふくよかな丸味のある姿に作られています。硬く痩せた姿の茶
碗は,初代仁清の作品には一つとしてないといっても過言ではありません。また仁清の
意匠は,彼が自分で考案したものかは判然としませんが,もし仁清自身が考えたとした
ならば,大変に意匠家であり色彩家であったともいえます。東福門院の御用品として作
られた「金菱文筒茶碗」(前掲)の,白い釉地に黒と赤と金と緑で表された意匠は,誠
に優美であり新鮮さがあります。「片男波カタオナミ」や「鱗波ウロコナミ文様」の茶碗は,宗和
好みと伝えられ,胴が少し引き締まった姿は仁清茶碗の特色の一つに数えられています。
仁清は自分の作品に「仁清」の印を捺しましたが,その文字には2種類あって,「片男
波」の茶碗に捺された印は宗和印と呼ばれ,一つは仁和寺宮ニンナジノミヤ拝領のものといわ
れています。
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