31b 茶碗レクチャー3
 
 光悦が作陶を楽しむようになったのは,何時頃からか判然としませんが,「本阿弥行
状記」に「鷹ケ峯によき土を見たて 折々拵コシラへ侍る許りにて、強シイて名を陶器にて挙
ぐる心露いささかなし」といっていますことや,作陶に関しての手紙の殆どが晩年の筆
態であることから考えますと,矢張り徳川家康から鷹ケ峯を拝領した元和元年(1615)
以後のこと,鷹ケ峯の村づくりが一段落したと思われる4,5年頃から,風流する心の
働くままに作陶に打ち込んだようです。「不二山」や「乙御前オトゴゼ」を見ていますと,
晩年の人の作品とは到底思えませんが,六十歳を過ぎた人の手すさびであったのです。
 光悦は,楽茶碗を作る技は,楽焼の吉左衛門常慶ジョウケイとその子の吉兵衛(のんこう
)から教わりました。殊に年の若い吉兵衛の才能は認めていたらしく,矢張り本阿弥行
状記に「今の吉兵衛は至て楽の妙手なり、我等は吉兵衛に楽等の伝も譲り得て慰みにや
く事なり・・・・」と述べていますように,のんこうとの交渉は可成り深かったようです。
そうしたことを考慮して光悦の茶碗を見ますと,黒楽茶碗に掛かった漆黒シッコクの釉薬ウワ
グスリは吉兵衛の黒楽と殆ど同じ性質の釉であり,常慶の黒楽よりも火度の高い窯で焼か
れたことが分かります。白楽は常慶の始めたものと伝えられていますが,恐らく常慶に
習ったものでしょう。光悦の赤楽の釉膚は,常慶とも吉兵衛とも違って,赤楽としては
法外の火度カドで焼成したのか,釉膚は美しくガラス状に熔けているのが,「乙御前」を
見ますとよく分かります。そして赤土を用いたものが多いです。
 土といえば,本阿弥行状記に「鷹ケ峯によき土を見たて・・・・」とはいっていますが,
必ずしも鷹ケ峯の土だけを使ったのではなく,寛永の初め,70歳を過ぎた頃に,吉左衛
門常慶に宛てた手紙によりますと「白土・赤土を急いで持ってきてほしい」と依頼して
います。また,鷹ケ峯に窯はあったに違いありませんが,これも晩年には楽家に膳ゼ所
で焼かすことがあったようです。
 光悦の茶碗は,決して一定の形式に拘ることなく,いろいろの形のものがあります。
大別しますと3種類で,「不二山」「七里シチリ」(五島美術館)「加賀光悦」など切り立
ち形の茶碗,「時雨シグレ」「雨雲アマグモ」(重文 三井家)のような姿の茶碗,更に「乙
御前」「雪峯セッポウ」(重文 畠山記念館)のように丸味の豊かな親しみ深い作振りのも
のなどがあり,然も同じ形状のものでも,それぞれに違った作為の働きがあって,一碗
一碗,如何にも楽しみつつ,然も創意を込めて作られたことが感じられます。
 例えば,高台にしても,「不二山」の厳しく緊迫感に満ちた作行き,「時雨」の温和
に趣,更に「乙御前」に見られる,いわゆる従来の楽茶碗における高台という概念を無
視した自由気侭な表現は,光悦でなければ出来ぬ作為であったといえ,茶碗の姿に応じ
て,それぞれに相応しい高台が削り出されていますのは,如何に自由な心で作陶に遊ん
だかを偲ばせるものがあります。
 気侭に然も思う存分の作陶であったことを,更に端的に窺わせるのは焼成の火度カド
で,これまた常識を逸した高い火度で焼き上げ,自分の茶碗が火の洗礼を如何に受ける
か,ということを楽しんでいるかのようです。これまた長次郎や常慶・吉兵衛など専門
的な陶工には為し得ぬところでした。
 光悦の茶碗は,楽家の茶碗がそうであったように,黒楽・赤楽が主体をなし,他に白
楽と飴釉の掛かったものとがありますが,彼は黒と赤の釉を,地の形式によって使い分
けています。「不二山」には白楽釉をかけましたが,「七里」「時雨」「雨雲」のよう
な,どちらかといえば端正な姿の茶碗には,「加賀」のような例外もありますが,黒釉
を掛け,「乙御前」「雪峯」のように親しみのある丸い作りの茶碗には赤釉を掛けてい
ます。
 このように細かに推察しますと,光悦の作陶は,正に真マコトの風流する心の所産であっ
たことが,ひしひしと感じられるのです。彼は寛永14年に没しました。
 
 △光瑳コウサ・光甫コウホ
 光悦があれほどに作陶に興じたのですから,彼の周辺の人達も,当然作陶を楽しんだ
に違いなく,光悦が本阿弥行状記に「陶器をつくることは余は惺々翁にまされり」とい
っていますように,松花堂ショウカドウ昭乗ショウジョウも作陶したことが明らかです。そしてま
た光悦の養子光瑳も,父に倣って作陶していました。楽家に伝わった光悦の手紙に「光
瑳の茶碗ももってきてほしい」という文面があり,兼ねてから光瑳作と伝える茶碗があ
ってもいいと思っていたところ,最近,箱の蓋表に「光瑳作茶碗鷹ケ峯 妙秀寺常什」
という箱書付けのある茶碗を発見しました。ところが面白いことに,古くからの箱に「
光瑳」と書かれているにも拘わらず,後世の茶人は外箱の蓋に「光悦作」と記していま
す。これから推測しますと,今日光悦として伝わっている茶碗の中には,光瑳の作が含
まれていることが窺われるのです。その光瑳の茶碗は,矢張り光悦の影響の強い作風の
ものですが,総体的に光悦茶碗よりも温和に作振りです。光瑳は光悦と同じ年に,少し
遅れて没しました。
 光悦の孫,空中斎クウチュウサイ光甫も,祖父に倣って作陶をしましたが,光悦や光瑳よりも
技そのものは数段達者でした。楽焼の茶碗も焼いていますが,信楽土を用いたものが多
く伝わっているためか,それらを世上「空中信楽」といって賞翫しています。茶碗のほ
かに水指や花生も焼いています。そして後に乾山は,空中から楽焼の法を学んだり,光
悦のことを聞いていたらしく,光悦を慕う心が,彼に作陶の道を歩ませたのかもしれま
せん。
 
 △唐津カラツ
 朝鮮から帰化してきた陶工達によって,肥前(佐賀県)の唐津を中心にいわゆる唐津
焼が焼かれるようになったのは,文禄慶長の役頃からであろうといわれています。しか
し文禄の役を契機に忽然と始まったというよりも,高麗茶碗を通じての日本と朝鮮との
交渉が,天文頃から頻繁であったことを考えますと或いは文禄の役以前から,唐津焼の
先駆をなすものが始まっていたと考えても不自然ではありません。殊に天文から永禄・
天正にかけて,高麗茶碗に対する賞翫が高まったことを想えば,高麗茶碗風のものが帰
化した陶工によって始められていたかもしれません。しかし唐津焼が,東の美濃瀬戸に
対抗する盛大な窯場に発展したのは矢張り慶長に入ってからで,唐津焼という言葉が茶
会記などに現れたのも,慶長8,9年(1603,4)のことでした。「唐津花入」「ちゃわん
唐津焼」と記されているだけなので,其処に使われた茶碗がどのようなものであったか
は判然としません。しかし,いわゆる唐津焼が,この頃からいよいよ茶の道具として「
瀬戸焼」や「今焼」とともに脚光を浴びるようになったことは明らかでしょう。
 唐津焼の茶碗も,美濃瀬戸の窯で瀬戸黒・織部黒・黒織部・志野・鼠志野・黄瀬戸な
ど,様々の茶碗が焼かれていたように,時代の早いものからやや遅いものまで,いろい
ろの作風の茶碗が,諸々に散在する数多くの窯で焼かれていました。中でも,奥高麗と
呼ばれている茶碗は,素朴な作風からしても初期の茶碗と思われ,「三宝サンボウ」(重
文 久保家)や「深山路ミヤマジ」は,いわゆる奥高麗の代表的な茶碗であり,素朴な姿
や,片薄に削り出された高台,俗に枇杷ビワ色といわれる朽葉クチバ色の釉など,如何にも
朝鮮から帰化してきた陶工の手になったという趣です。
 彫唐津も初期の茶碗ですが,その姿や昨振り,釉調には,志野茶碗と似たものがあり,
恐らく美濃焼との交渉があったものと推測されます。
 鉄絵のある唐津を総称して,一般に絵唐津と呼んでいますが,これまた多くの窯で焼
かれたので,様々の作行きのものがあり,中には全く美濃の織部焼と変わりない文様や
姿の茶碗を見かけます。殊に慶長から元和にかけて物で量産された沓形クツガタの茶碗は,
時代の好みであったため,唐津の窯でも盛んに焼かれていますが,織部好みの普及率の
高さには全く驚かされます。
 絵唐津「胴筋茶碗」は,矢張り絵唐津としては初期のもので,長石釉に藁灰を混入し
た釉薬が掛かっていますが,この種の釉薬の掛かった茶碗に,瀬戸唐津と呼ばれるもの
があり,「瀬戸唐津茶碗」は江戸初期に焼かれたものです。最もよく見かける絵唐津は,
「絵唐津茶碗」(出光美術館)のような種類のもので,その多くは慶長末から元和・寛
永の頃に焼かれたと考えられ,唐津らしい素朴さの中に軽快な装飾的要素が加わってい
ますが,薄茶茶碗として好まれています。また唐津焼には筒茶碗は少なく,殊に「ねの
子餅」のような奥高麗と似た朽葉色の釉の掛かった茶碗は珍器といえます。「絵唐津筒
茶碗」も,如何にも唐津らしい野生味に富んだ作振りが面白いです。
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