31a 茶碗レクチャー3
△織部オリベ黒・黒織部
織部黒は,織部好みの沓形茶碗で,総体に黒釉に掛かったものをいい,黒一色ではな
く,黒釉を左右に掛け分けて空間に文様をはめ込んだ絵文様のあるものを黒織部と呼ん
でいます。織部黒・黒織部ともにその作品は茶碗が殆どで,他に黒織部の香合を幾つか
見たことがあります。
瀬戸黒の「冬の夜」,同じく「有明」,黒織部,黒織部「やぶれ窓」の四碗(前掲)
は,瀬戸黒から黒織部に至る形態の変遷を推測すべく記述したものですが,「有明」は
瀬戸黒というよりも,寧ろ織部黒に近い作風のものといえます。そしてその変化は,そ
のまま天正から慶長に至る好みの移り変わりを窺わせるものです。
古田織部が,作為の強い沓クツ形茶碗を好んで作らせ,茶会に用いるようになったのは,
天正の末期頃からではなかったかと考えられますが,慶長4年2月28日に自分の催した
茶会で,沓形茶碗を使ったらしく,「セト茶碗ヒヅミ候也ヘウゲモノ也」と,その茶会
に招かれた神谷宗湛は茶会記に記していますが,沓形茶碗を,「ヘウゲモノ也」と評し
ているところに,織部の好みが,利休の好みとは全く異質のものであったことが端的に
語られています。確かに,利休好みの「大黒」と較べますと,「やぶれ窓」のような茶
碗は,「おどけた」面白い姿の茶碗という印象を与えたに違いありません。この織部好
みは,慶長年間を通じて大いに流行したらしく,元和ゲンナ元年の「草人木ソウニンボク」に,
「茶碗ハ年々ニセトヨリノボリタル今焼ノヒツミタル也」と記しています。
△赤織部
赤織部という言葉も,また古くからのものではなく,黒織部に対して,赤い釉膚の織
部茶碗という意味で,赤織部と称されるようになったものであり,いわゆる織部焼の一
種ですが,歪ヒズんだ形の織部好みが,時代の好みとして,大いに流行するようになった
慶長年間の後期に焼かれたものと推測されます。
瀬戸黒から志野,更に黒織部・赤織部まで,およそ30年の間,美濃瀬戸で焼かれた茶
碗の種類について述べましたが,無作為から作為の強い装飾性に目覚めていった作風の
変化は,桃山の時代思潮の移り変わりをそのまま反映しているようであり,中世から近
世に移行する過渡期の様相が,一碗の茶を喫する茶碗にも端的に窺われますのは,誠に
興味深いです。殊に織部好みといわれています作為の強い歪みのある形は,織部を中心
とした慶長頃の茶風に大きな共感を与えたらしく,美濃のやきものだけではなく,伊賀
や備前更に唐津にも影響を及ぼし,伊賀や備前では,材質的に茶碗には適さなかったが,
水指・花生などに織部好みの豪快な作振りのものが多く焼かれました。また唐津焼が茶
の湯に使われるようになるのは慶長8年頃からでしたが,古田織部がまず採り上げてい
ることは,織部の目が唐津焼にも向けられたことを物語り,としますと唐津で織部好み
風のものが焼かれるようになったのは慶長の中頃からと考えられるのです。
△備前ビゼン・信楽シガラキ・伊賀イガ
備前国の伊部で焼かれたいわゆる備前焼は,日本のやきものの中では信楽とともに最
も早く佗茶に使われたものでした。何れも釉薬を厚く掛けた釉膚の美しいやきものでは
なく,素地をそのまま硬く焼締めたもので,渋く麁相ソソウな趣のものですが,その麁相な
作風の中に,佗の茶人たちは大いに共感を憶えたのでした。
硬く焼締まった素地膚に窯中で自然釉が掛かったものもありますが,備前や信楽は,
何れも土の味というものをそのまま生かしているところに特色があり,佗茶が流行する
に従って,茶人の好みの作品が多く焼かれるようになっても,土味を生かし,土味を賞
味するということが,茶人達の備前や信楽に対する態度でした。そして土膚が露アラワであ
るということは,花生ハナイケや水指などには如何にも適していましたが,茶を喫する茶碗
としては,質的に適当でないと桃山の茶人達も思っていたらしく,瀬戸や唐津など釉薬
の掛かったやきものを焼く窯では,あれ程多くの茶碗が焼かれているのに,備前や信楽
では極めて少ないです。殊に備前の茶碗で伝世しているものは数える程しか見ていませ
ん。「備前沓茶碗」(岡山古陶館)は,その数少ない茶碗の代表作で,いわゆる織部好
み風の力強く豪快な作振りの茶碗です。おそらく天正の末頃に焼かれたものでしょう。
信楽でも,矢張り桃山頃から茶碗を焼いていたに違いありませんが,豪快な作行きの
ものは見たことがありません。信楽茶碗「水の子」(根津美術館)は,千利休とともに
桃山期の大茶人として知られました津田宗及ソウキュウの所持していたものですが,如何にも
茶味を強調した作振りの茶碗です。江戸初期に入りますと千宗旦ソウタンや小堀遠州エンシュウの
好みの茶碗を焼いたらしく,信楽茶碗「花たちばな」は小堀遠州の切型(好みの型をか
みに切って手本にさせる)によるものと伝えられています。これは茶碗としての用を充
分に考慮しつつ信楽焼の特色を生かしたもので,茶を点てる内面には蒼いピロード釉が
掛けられ,外側は赤く焦げた素地膚をみせています。作為の強いものですが薄茶の茶碗
としては面白いです。
伊賀は,矢張り桃山時代に茶器を数多く焼いた窯で,これも備前・信楽と同じく器質
の硬く焼締まったやきものですので,茶碗はたまにしか焼いていません。伊賀筒茶碗は,
その稀な中の一つです。
△光悦コウエツ
数多い日本の茶碗の中で,最も品格の高い茶碗を一つ挙げるとしますと,私は躊躇タメラ
いなく光悦の白楽茶碗「不二山フジサン」(国宝 酒井家)を挙げます。茫洋とした深い味
わいを感じさせることでは「無一物(長次郎作)」ですが,個性的な作為がその姿の中
に見事に生きていて,然も筆舌では尽くし難い品ヒンを感じさせるのは「不二山」だと思
います。
轆轤ロクロで成形した茶碗でも,作者の個性というものは当然その作振りに表れるもので
すが,楽茶碗は轆轤を用いずに手づくねで形を作る彫塑的な手法のものであるためか,
轆轤作りよりも,もっと作る人の心が端的に表れるように思えてなりません。そうした
意味で,光悦の茶碗は,正に光悦という人の風流する心の所産であったといえます。光
悦の強い個性に充ちた作為は,長次郎に始まった楽茶碗に,独楽ドクラクの境に遊ぶ風流の
造形美を開花させたのでした。
もう一度「不二山」を見てみましょう。半筒形にきっかりと立ち上がった茶碗の姿は,
長次郎の楽茶碗には全く見ないもので,楽茶碗としては光悦独特の作風といえます。長
次郎の茶碗が,千利休の好みによるものとしますならば,それは作者の個性の表れとい
うよりも,利休の好みであるところに茶碗としての意義があったといえます。其処には
長次郎の作者としての意識は表に現れず,いわば没個性的に作為のなせるものでありま
した。ところが,同じ楽茶碗でも,光悦の茶碗は全く違います。高台から口作りに至る
まで,全て光悦という作者の目と心が隈無く働いています。不二山の高台から腰廻りの
削り跡に,目を近づけて見ますと,小さな高台であるのに,巨大な巌石のような量感と
力強さが如実に感じられます。このような作為は,他の如何なる楽茶碗にも見られませ
ん。光悦茶碗の写しを,過去の人々が多く作っていますが,これだけの気迫に充ちた造
形は誰も再現することができませんでした。不二山は,元々白楽茶碗を作るつもりだっ
たらしいですが,焼成中に窯の中で下半部が窯変して炭化したらしく,上半部は白楽に
下半部は鉛黒色に焦げて,偶然に思わぬ効果が加わって,光悦が考えもしなかったもの
が出来上がりました。然もそれは恰も霊峯不二山を連想させるような趣のものであり,
また光悦としても二つと出来ない茶碗と思ったのでしょうが,その箱の蓋表に光悦の自
筆で「不二山・大虚庵」と書付けされています。
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