31 茶碗レクチャー3
〈和物茶碗〉― その変遷と種類 その2―
△瀬戸黒セトグロ
桃山時代に使われました茶碗といいますと,「山上宗二記」に「当世ハ高麗茶碗,今
焼茶碗,瀬戸茶碗以下迄也・・・・・・」と述べられていますように,和物茶碗としては,長
次郎焼即ち今焼茶碗と瀬戸茶碗が殆どでした。ところが,これらの瀬戸茶碗の多くは,
いわゆる尾張の瀬戸で焼かれたものではなく,美濃の土岐郡・可児郡に散在した釜で焼
かれたもので,江戸初期に刊行された「毛吹草ケフキグサ」には「美濃瀬戸」と称されてい
ますが,瀬戸の釜が鎌倉時代から栄えて,その名が高かったことから,美濃のやきもの
も一般の人々の間では瀬戸と呼ばれたのでした。
桃山の頃に美濃の窯で焼かれた茶碗には,瀬戸黒・黄瀬戸・志野・織部黒・黒織部な
どがありますが,今日一般には瀬戸黒が茶碗としては最も早い頃のものではないかと推
測されています。しかし,黄瀬戸や志野でも瀬戸黒と同じ窯,同じ時代に焼かれたもの
があり,取り分け瀬戸黒のみが時代が古いとはいえません。白い志野茶碗の場合は,初
期のものも後のものも全て志野と呼びますが,黒茶碗の場合は,初期のものを瀬戸黒,
次のものを織部黒,更に黒織部などと分類していますので,瀬戸黒が志野よりも古い時
代のもののような印象を与えている訳です。
瀬戸黒の多くは,後の織部黒や黒織部のように歪んだ沓クツ形のものは少なく,腰の張
った半筒又は筒形の素直な作振りのものが多いです。織部黒よりも古いものというとこ
ろから,利休好みではなかったかと推測されたりしていますが判然としません。しかし
長次郎作黒茶碗と瀬戸黒とはどこか似通った趣を持っていることは確かです。
△黄瀬戸キセト
黄瀬戸という呼称は,瀬戸黒が瀬戸の黒茶碗ということから,俗に瀬戸黒と呼ばれる
ようになったのと同じく,黄色い釉の掛かった瀬戸焼,即ち黄瀬戸と呼ばれたに違いあ
りません。しかし桃山頃の茶会記には,瀬戸黒・織部黒・黒織部・黄瀬戸・志野といっ
たような,今日のように分類された呼称はなく,大抵の場合,ただ単に「セト茶碗」と
か「セト黒茶碗」などと記されているだけであり,志野らしきものは「セト白茶碗」と
記されています。
桃山の黄瀬戸は,瀬戸黒や志野と同じく美濃の窯で焼かれたものですが,黄瀬戸釉は,
古く鎌倉時代に始まったもので,室町時代にも,透明性の黄釉の掛かった茶碗が瀬戸や
美濃で焼かれていました。しかし桃山時代に入りますと,そうした古瀬戸風の黄瀬戸釉
とは聊か異なった,潤いのある恰も油揚げの膚を観るような失透性の黄釉の掛かった黄
瀬戸が焼かれるようになりました。
桃山時代の黄瀬戸には,茶碗として作られたものは少なく,伝世しているものは数え
る程しかありません。そして今日茶碗とされているものの多くは向付として焼かれたも
のを転用したものです。
黄瀬戸茶碗は(前掲),箱に北向道陳キタムキドウチン好みと書付されています茶碗で,その
伝承には疑問はありますが,利休好みの長次郎茶碗と瓜二つの形であるのは興味深いで
す。釉は半透明性の黄褐色釉が掛かっています。「アサイナ」は,純然とした茶碗で,
恐らく天正の後期に焼かれたものらしく,瀬戸黒や志野と似た姿をしています。黄瀬戸
茶碗は,向付を茶碗に転用したものの代表作で,黄釉地に緑釉を刺した色感が美しいで
す。
△志野シノ
桃山時代の瀬戸茶碗の中で,茶碗として最も味わい深く,また今日一般に声価の高い
のは志野ではないでしょうか。瀬戸黒の端正で慎ましい姿も大いに好感は持てますが,
白い長石釉がたっぷりと掛かり,然も釉膚に赤い火色がところどころに現れた,柔らか
味に満ちた志野の味わいには叶いません。日本人が創意したやきものの中でも,最も美
しい日本的情味の溢れたものといっても過言ではありません。
このような,白い長石釉の掛かった志野が,何時頃から始まったか,ということは興
味深いことですが,室町時代の天文年間頃に焼かれていた瀬戸白天目を,志野釉の源流
をなすものと考えますと,既に室町中期末に始まっていたといえます。しかし白天目の
白釉は,いわゆる志野のように,純然とした長石釉でしなく,少し灰釉が混じった長石
釉らしいです。
志野の初期のものといえる白天目が,天目形の茶碗であったように,桃山時代に半筒
や筒形の茶碗が焼かれるようになるまでの志野の茶碗も,矢張り天目茶碗であったよう
で,美濃の大萱オオガヤなどの窯跡から,室町末期から桃山にかけての志野天目の破片が出
土しています。
志野天目は,全て無地で,後の志野茶碗のように鉄絵具で絵は描かれていません。従
って瀬戸黒と同じ頃に焼かれた,桃山でも早い頃の志野も無地のものであったに違いな
く,下絵付をした志野が,何時頃から始まったかは判りませんが,その最盛期は,天正
の末から文禄・慶長,殊に慶長年間の前半期ではなかったかと考えられます。
ところで,美濃で焼かれたこの白い釉の掛かった茶碗を,どうして志野と呼ぶように
なったかは,かねがね興味を持たれている課題ですが,今のところ未だ判然とした答は
出ていません。しかし天文頃から名物として著名であった茶碗に「志野茶碗」と呼ばれ
た天目茶碗があり,その志野茶碗がどのような茶碗であったかは分かりませんが,志野
という名称の起こりについては,その志野茶碗と何らかの関係があるのではないかと推
測されています。また一説には,室町中期文明から大永頃に数寄者スキシャとして名の高か
った志野宗信(1441〜1522)所持の茶碗が志野茶碗と呼ばれ,それが白い釉の志野茶碗
の名の起こりであるともいわれています。だが何れも判然としないところがあって,未
だ定説とするには至っていませんが,「志野茶碗」が,志野宗信の時代に,美濃の何処
かの窯で焼かれた白い釉の掛かった天目茶碗ではなかったかという推測も,一概に否定
できないように思われますので,そうした意味で,瀬戸や美濃で焼かれた天目茶碗の研
究は,今後の重要な課題の一つであるといえます。
桃山時代の志野や瀬戸黒・黄瀬戸の中では,窯趾から出土した陶片によりますと,大
萱の窯で焼かれたものが最も優れているらしく,伝世した志野の中でも釉膚クスリハダの美
しい名品は殆ど大萱のもので,「住吉スミヨシ」,鼠志野ネズシノ「さざ波」「卯花墻ウノハナガキ
」(桃山)(国宝 三井家)「橋姫ハシヒメ」「朝萩アサハギ」「峯紅葉ミネモミジ」(五島美術
館)なども,荒川豊蔵氏はその著「志野」で大萱のものと推測しています。
志野茶碗をみていますと,矢張り瀬戸黒に形の似たものは,時代の古いものと考えら
れ,「橋姫」は桃山前期の典型的なものといえます。釉膚はやや固く,志野独特の美し
い火色も殆ど出ていませんが,大振りで力強く,端然とした形姿は,茶碗としての味わ
いには乏しいですが,桃山らしい気風が如実に感じられます。
「卯花墻」は,数ある志野茶碗の中でも,最も形姿の優れたもので,殊にその高台の
削り出しの軽妙な篦ヘラ使いは見事なものです。余程練達の名工が作ったものに違いあり
ま
せん。
「住吉」(前掲)は,柔らかで,然も白く美しい釉膚の味わいでは,伝世の志野茶碗
の中でも屈指のものといえます。釉膚がこのように柔らかい茶碗は,高台の土膚もまた
ほのぼのとした柔らか味があって,志野特有の百草土モグサツチ(恰も百草のような趣なの
で)というものの良さを充分に味わせてくれる。更に高台の作りが二重の輪のようにな
っていますが,これも俗に二重高台といって,志野や古い唐津に見かけるもので,桃山
独特の作風です。
白素地の上に鬼板オニイタと呼ばれる鉄釉で化粧掛けをし,その上から白い志野釉を掛け
て焼きますと,釉膚は鼠色に焼上りますが,これを俗に鼠志野ネズミシノと呼んでいます。
鼠志野の白い文様は,鬼板で化粧してから文様を掻落し,その上から志野釉を掛けて焼
きますと,掻落したところが白く文様となって現れたもので,この種の鼠志野の茶碗で
は,「峯紅葉」が最も優れています。「さざ波」はその文様を高麗茶碗の彫三島に倣っ
ているのが興味深いです。
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