30a 茶碗レクチャー2
 
 △長次郎焼
 天文から天正前期にかけての40年間は,日本の茶碗といいますと瀬戸(美濃もふくめ
て)焼茶碗でした。そしてその主体をなしていましたのは瀬戸天目であったと思われま
すが,室町期の作と考えられる黄釉の掛かった茶碗も瀬戸で焼かれていますので,或い
は,そうしたものも茶会に使われていたかも知れません。そして更に,天正10年頃から
そろそろ天目ではない瀬戸茶碗,即ち利休好みの半筒形の茶碗が焼かれていたかととも
推察されますが,当時の茶会記をみても「瀬戸茶碗」とあるだけで,どのような形のも
のであったかは判然としません。ところが天正14年頃,純然とした利休好みの茶碗が,
桃山の茶会に登場してきます。即ち京都で長次郎が創始しましたいわゆる楽茶碗の出現
です。しかし当時の茶会記には長次郎作という記述はなく,「宗易ソウエキ(利休のこと)
形」の茶碗と称されていることからも,利休の好みになった長次郎茶碗は,一般には利
休茶碗として知られていたことが窺われます。そしてまた殆どの茶会記や茶書,手紙に
は長次郎茶碗のことを「今焼」又は「焼」,「聚楽焼」茶碗と記していますが,今焼と
は当世の茶碗という意でしょう。
 「宗易形」と称された長次郎茶碗が茶会で使われるようになりましたのは天正14年の
ことですが,長次郎の茶碗は,それ以前にも既に焼かれていたらしく,天正7,8年頃
の茶会記にそれらしいものが記されています。そしてその頃の作と推測されますのが「
道成寺」や「勾当コウトウ」で,何れも赤楽アカラクであることは,初期の長次郎焼の茶碗は主
として赤楽であったことを窺わせます。
 長次郎の創始したと考えられます楽茶碗の特色は,既に知られていますように,轆轤
ロクロによって成形したものではなく,手づくねによったものであり,また焼成に本焼窯を
用いないで,楽焼窯といわれています内窯で焼成しているところです。そして赤楽は7,
8百度の火度で焼かれ,黒楽は千度余りで焼かれているといわれています。更に長次郎
時代の楽茶碗は,黒・赤ともに焼成火度が低かったためか,釉膚がかせているのが特色
で,黒楽は,のんこう以後のもののように,よく熔けた漆黒色ではなく,黒褐色の独特
の釉膚をなし,赤楽も白くかせた釉膚に焼き上がったものが多いです。
 長次郎の茶碗といいますと,赤楽と黒楽に限られていますが,その楽焼の陶法は,中
国の広東方面で行われていましたいわゆる交趾コウチ焼の流れを汲むものであったらしく,
長次郎と共同経営者であったと考えられます宗慶の作品の中に,緑と黄褐色の釉を掛け
分けた獅子の香炉コウロの瓜文様の皿が残っていますが,それをみても明らかに交趾焼の陶
法によったものであることが分かります。
 長次郎の茶碗の中でも,「無一物ムイチモツ」や「大黒」又は「むき栗」が,典型的な利休
好みであったことは,同じく利休の好みによって鋳造された「阿弥陀堂釜」や「四方釜
」の形態と比較しますと明確に分かります。四方釜は利休が晩年に屡々用いたものです
が,その形状と「むき栗」の四方形とは瓜二つであり,「無一物」と「阿弥陀堂釜」も
全く同じ発想です。即ちこれらの形こそ,利休の晩年の作為を象徴するものといっても
過言ではありません。
 最近迄は,楽茶碗といいますと,初代長次郎,二代常慶,三代のんこう(道入)とい
われ,長次郎といわれています茶碗は全て長次郎一人が作ったようにいわれていました
が,10年程前に楽吉右衛門家に伝わった文書が公開され,それに拠りますと,のんこう
以前の楽焼は,長次郎と常慶の二人だけでなく,他に宗慶・宗味・宗味の娘を妻にして
いた長次郎(恐らく二代目長次郎でしょう),それにその二代目の長次郎が早く死んだ
ので妻が実家に帰って矢張り焼物を焼き,それを尼焼アマヤキと称したことが判明しました。
その系譜を簡単に記してみましょう。
 
 長次郎・・・・・・・・・・・・・・・長次郎                 
                 ・                     
      ・・宗味(庄左裁門)・・・娘                   
 宗慶・・・
      ・・宗慶(吉左裁門)・・・・・・のんこう
 
 こうした系譜が発表される以前から,長次郎として伝えられた茶碗には,いろいろの
作風のものがありますので,常慶のものが多く長次郎となっているとか,二人の長次郎
がいたらしいとか推測されていましたが,楽家文書の発表によって,長次郎といわれて
います茶碗は,常慶作とされているものも含めて,尼焼を除いても5人の作者の手にな
っていたことがわかりました。しかし果たしてどの茶碗を誰が作ったかということは未
だ判然とせず,それは今後の研究に委ねられています。
 例えば「無一物」や「大黒」は天正14〜15年(1586〜7)頃に焼かれたと推測されます
が,その頃の楽は既に長次郎一人ではなく,宗慶が加わっていたと考えられます。宗慶
は文禄4年(1595)に60歳で,天下一の称号を許されていたことが分かっていますので,
天正4,5年頃には,既に一流の茶碗師であったことは十分に推測されます。そうしま
すと,利休好みの茶碗を焼いた作人として長次郎と宗慶の二人が考えられますが,何れ
が「無一物」や「大黒」を焼いたかということは,今のところ判りません。しかし,恐
らく宗慶の作に違いないと推測される茶碗が2碗分かっていて,その一つは黒楽茶碗で
すが,それには高台内に宗慶が用いていました「楽」の印が捺されています。そしてこ
れを宗慶作としますと,「無一物」や「大黒」とは聊イササか作行きが異なりますので(宗
慶作とみられるのは,底の土取りが可成り薄いのに対して,無一物や大黒は分厚く,手
取りがやや重い),「大黒」等いわゆる利休形の茶碗は矢張り長次郎であったといえる
かも知れません。
 利休所持と伝える茶碗の中に,「大黒」の他に「雁取ガントリ」「俊寛」がありますが,
「大黒」と「雁取」「俊寛」とでは,その作風は可成り異なります。同じく利休所持と
はいえ,別人の作と考えなければならない程異なります。そうしますと,「大黒」を長
次郎作としますと,「雁取」「俊寛」は宗慶作,又はその反対もあり得ますが,何れに
しましてもこれらは利休時代の作,即ち天正19年以前の長次郎焼であったことは確かで
あり,天正14〜15年頃から慶長の末年頃にかけて,長次郎・宗慶・宗味・常慶等によっ
て焼かれたものでしょう。のんこうは以前のいわゆる長次郎焼の茶碗の中でも,早い頃
の作品であることが認められます。そしてこの二つの形態を基準にして,その後の長次
郎焼の茶碗は焼造されたといえるのです。
 「大黒」「二郎坊」「俊寛」「桃花坊」の断面図を見ますと,「大黒」と「俊寛」の
作風の違いは手に採るように判ります。大黒は底が分厚く,俊寛は薄いのが最も大きな
違いであり,俊寛には「歪ユガみ」が加わっていますが大黒は端正で静かな作振りです。
「桃花坊」は大黒と似ていますがやや小振りであり,「二郎坊」と「桃花坊」は全く瓜
二つで明らかに同一作者であったことが分ります。大黒と桃花坊とが同一作者であった
か否かは判然としませんが,両者が共通の作風のものであることは明らかで,この種の
形体がいわゆる利休形の典型と考えていいのではないでしょうか。
 広い意味での長次郎茶碗の中で,その作風が全く判然としないのは宗味です。それに
対して宗味の弟であった常慶作と伝えられています茶碗は可成り多いです。そして常慶
作とみなされているものには,いわゆる利休形のものは少なく,古来道安(利休の子紹
安ショウアンのこと)好みといわれているものが多いのは興味深く,後世の茶人達は,利休好
みの長次郎焼に次いで,道安好みを常慶,即ち「二代目作」と決めていますが,二代目
作ということは,利休好みではないというように思っていたようです。ですが,この「
二代目」作が全て常慶の作品といい得る訳ではなく,これらの中に宗味の作品も加わっ
ているかも知れません。そして,「二代目」作として伝えられています「悪女」のよう
な姿の茶碗は,「無一物」や「大黒」を作った作者とは別人であったことは,先ず断定
していいのではないでしょうか。

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