30 茶碗レクチャー2
 
〈和物茶碗〉― その変遷と種類  その1―
 
 茶の湯が始まって以来,喫茶のために使われた茶碗の種類は,誠に多種多様で,各時
代の代表的な種類を挙げるだけでも容易なことではありません。しかも日本の文化の特
質として,茶の湯の場でも,早くから中国や朝鮮からの舶載品ハクサイヒンに深い愛着をみせ
ましたので,中国もの,朝鮮もの,中国の影響を受けた日本のもの,朝鮮の影響を受け
た日本のもの,そして日本的な創意に因るものなど,大袈裟にいいますと東洋の茶碗の
見本市の感があります。そしてそれらが,茶会の目的や,季節の感覚をそれぞれに考慮
して,茶の湯に用いられる訳で,誠に以てきめの細やかな世界であるといえます。恐ら
く茶の湯に使われた茶碗の種類や産地を,一通り知りますと,大抵の焼物の鑑識には通
じる筈です。殊に日本のやきもので,茶碗を一つとして焼かなかった窯カマは数える程し
かないに違いありませんので,茶碗を理解することは,自ずから窯の作風を知ることに
なります。
 茶の湯に用いられました茶碗を,使用された年代順にその変遷の跡を辿ってみますと,
鎌倉時代から室町時代の中期,15世紀末頃迄は,圧倒的に中国宋代の茶碗が多いです。
いわゆる唐物カラモノ茶碗で,中でも天目茶碗がその主体をなし,青磁や白磁がそれに加わ
っていました。鎌倉時代は抹茶マッチャはまだ一般的な飲料ではなく,僧侶や上流階級の間
での嗜好品に過ぎませんでしたので,舶載品を好んだ彼等の茶碗は,自ずから唐物が主
体となったのでした。栄西エイサイ禅師ゼンジが源実朝に「喫茶養生ヨウジョウ記」を献じた頃
も,恐らく茶碗は,宋時代に焼かれた天目茶碗か,青磁又は白磁であったに違いありま
せん。
 南北時代から,喫茶の風は風流として次第に人気が高まり,「太平記」に記されてい
ます佐々木道誉ドウヨが行ったような茶寄会が盛んになり,中流以下の階層の間にも喫茶
の風が広まって行くにつれ,舶載品だけでは需要を充たすことができなかったようで,
瀬戸の窯で天目茶碗の写ウツしが焼かれるようになり,いわゆる瀬戸天目が喫茶碗として
使われるようになりました。しかしその声価はまだまだ低いもので,今日残っています
各種の「往来物」や寺社の「目録」には,中国舶載の天目や青磁・白磁のことしか記録
されていません。
 唐物茶碗の賞翫が極度に高まったのは,室町時代に入ってからで,将軍足利義満から
義政の頃でした。この頃から,茶碗は単に喫茶のための器としてだけではなく,将軍や
上流階級の間では,その作振りに対して美的評価をするようになり,将軍の府庫の品々
に対して,名器から順に等級別目録,即ち「君台観左右帳記」が作製されましたのは,
茶碗の変遷史上注目すべきことです。然も唐物茶碗を対象にしただけですが,「曜変天
目ヨウヘンテンモク」「油滴ユテキ天目」を第一とした君台観の序列が,五百年を経た今日における
評価と殆ど変わりのないのは,当時の評価が物の正格を重んじてなされたからでしょう。
 物の正格を尊び,格式の厳重を重んずる茶の湯と,美意識は,室町幕府の弱体化とと
もに次第に崩れてゆき,村田珠光ジュコウの出現によって大きな転期を向かえるに至りまし
た。
 「ひえ枯れた」風情,ものの「侘た」姿に,深い共感を示すようになった珠光の茶の
湯は,其処に用いる茶碗にも,自ずからそれなりの美意識を以て対しました。珠光は「
月も雲間のなきはいやにて候」という言葉を残していますが,これ程珠光が求めた侘ワビ
の美意識を端的に示している言葉はありません。それは雲一つ無い理想的な境地といえ
る唐物道具に対して,雲間の月という,かげりのある麁相ソソウな姿の道具,完全美に対し
て,不充分な状態における美というものに共感を示したのでした。そして珠光は「金の
風炉フウロ・罐子カンス・水指ミズサシ・水こぼしにてあるべく候へども,しみはせまじく候,伊
勢物・備前物・なりとも,面白くたくみ候はゞ,まさり候べく候」といって,伊勢物(
瀬戸天目のことでしょうか)や備前物,即ち唐物の全盛時代に,備前の種壷や,瀬戸焼
の天目などを積極的に使っていったのであり,また唐物でも,珠光青磁と呼ばれていま
す粗悪な青磁を茶碗に用いたりしたのでした。いわゆる侘の茶の出発ですが,珠光の侘
茶が,唐物の正格の美を知った上でのものであったことは忘れてはなりません。
 斯くして茶碗の世界でも,宋時代の天目茶碗や青磁に変わって,同じ青磁でも珠光青
磁,同じ天目でも曜変や油滴・建盞のような完全美なものから,灰被ハイカツギ天目や瀬戸
天目のような地味な趣のものへと,時代の好尚は移っていったのでした。
 そして更に,珠光の侘茶の後継者や,次の時代の担い手達が,京都・堺などの町衆,
いわば格式厳重の埒外ラチガイの人達でしたことは,侘茶の道具に対する好みを「侘」とい
う美意識のもとに,一段と積極的に,自由に求める傾向をみせるようになり,和物の他
に,朝鮮で焼かれた茶碗にも着目するようになったのでした。井戸や三島茶碗など,い
わゆる高麗コウライ茶碗も,朝鮮からの舶載品ということで,唐物と同じように舶来趣味は
払拭されていませんが,作品そのものに対する美意識は,根底から変化をみせたのであ
り,珠光の没した文亀2年(1502)から,およそ50年を経た天文23年(1554)に著され
た「茶具備討集」には,瀬戸天目・高麗茶碗などが主役として記されるようになり,更
に永禄7年(1562)には,「当時の数寄スキハ唐物ハイラヌ様ニ成タリ」と「分類草人木
」に記されています。そして更に,千利休センノリキュウが最も活躍した天正16年(1588),即
ち侘茶の完成期に至って,利休の高弟山上宗二は「惣別茶碗之事,唐茶碗は捨リタル也,
当世ハ高麗茶碗,今焼茶碗(楽茶碗のこと),瀬戸茶碗以下迄也,形サヘヨク候ハバ数
寄道具也」と,その茶書に述べています。
 天正16年といいますと,今焼茶碗即ち利休好みの長次郎茶碗「無一物」や「大黒」が
完成して間もなくの頃でした。そしてここに至って,侘茶の世界は,初めて「侘茶のた
めの茶碗」を創造したのでしたが,この新しい創造は,利休に次いで活躍しました古田
織部フルタオリベの時代には,更に一段と活況を呈し,いわゆる織部焼の全盛をもたらしまし
た。更に江戸に入りますと,小堀遠州コボリエンシュウ・金森宗和カナモリソウワらが,それぞれに京
都や各地の窯場で創意の茶碗を焼かせたのでした。また高麗茶碗も広く賞翫され,殊に
文禄・慶長の役エキ後は,日本からの注文が金海キンカイや,釜山フザンで焼かれるようになり
ました。従って茶碗の変遷を語るには,高麗茶碗なくしては語り得ませんが,ここでは
「日本の美術」の意に沿って,主に和物の茶碗を対象として展開することにしました。
 
 △瀬戸天目
 わが国の古い窯場で,最も早くから,純然とした抹茶用の茶碗を焼いたのは瀬戸窯で
した。瀬戸窯は,今日一般に古瀬戸コセトと呼ばれているものをみても分かるように,中国
の宋磁ソウジの影響を受けたやきものを鎌倉時代から焼いていましたが,南北朝若しくは
室町前期頃から,次第に高まりつつあった喫茶の流行にともない,その需要に応ずべく,
当時賞翫されていました宋代の天目茶碗の倣ホウ作品を焼造するようになりました。
 古瀬戸の研究家の間では,鎌倉時代の後期には既に焼かれていたとみる人もあります
が,その焼造が盛んになりましたのは,矢張り室町時代に入ってからと推測されます。
始めは恐らく下層の人々の間で用いられていたでしょうが,侘茶が流行するにともない,
次第に重んじられるようになり,大永2年(1522)には連歌師宗長ソウチョウは,大徳寺に瀬
戸天目50個を寄進しており,また天文23年には「茶具備討集」に「瀬戸天目」が主役と
して扱われています。
 天文といいますと,堺の大茶人武野紹鴎タケノジョウオウの活躍した頃ですが,瀬戸白天目茶
碗は,2碗とも紹鴎の遺愛品で,その一つには,千利休が「紹鴎セトハクテンモク」と
箱書付しています。殊にこの白天目(重文)は,長石質の白釉シログスリが掛かっているの
が注目され,後の志野の源流になるものと推測されています。
 また瀬戸天目茶碗(東京国立博物館)は,宗長が大徳寺に寄進し,いま真珠庵に伝わ
っています瀬戸天目と殆ど同型のものであることから,大永年間から天文頃の瀬戸天目
の典型的な作風を示すものと推測されます。瀬戸菊花天目もほぼ同期の作でしょう。
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