29b 茶碗レクチャー1
 
〈茶碗という言葉〉
 日常茶飯という言葉がありますように,今日では茶を飲むという風習は,食事をする
のと同じように当たり前のことになっています。勿論ここにいう茶は,煎茶や紅茶もひ
っくるめた広い意味での茶ですが,茶の良し悪しはともかく,私達にとって茶の無い生
活は考えられません。従って茶を飲むための碗即ち茶碗は,絶対的な必需品であり,茶
碗という言葉も生活の周辺では最も普及しています用語の一つです。ですがこの分かり
切った「茶碗」という言葉が,何時頃から使われ出したか,また用語としての変遷はあ
まり知られていませんので,簡単に述べてみましょう。
 私達の生活の中では,原則的に,木製の椀ワンで茶を飲むということはまずみられませ
ん。ですから木製の椀を茶椀と呼んだ例は聞いたことはありません。木製の椀でも茶が
飲めない訳ではありませんが,古く喫茶の風習が始まったときから,茶を飲む碗は,や
きものを用いるのが常識であったらしく,したがって茶碗の場合の「碗」という字は,
多くの場合やきものであることを意味する,「石」偏や「土」偏が当てられていました。
 茶碗という言葉がわが国では何時頃から使われるようになったのでしょうか。喫茶の
碗ではなく,単なる「椀」は「まり」と呼ばれて,飯や汁その他食物を盛る鉢より小さ
い碗形ワンナリの器として,古墳時代から金属・陶製・木製などで作られていました。とこ
ろが9世紀頃から,「碗」の上に「茶」を付けた「茶碗」という呼称を持つ碗が記録の
上に現れてきます。茶の字を付けた熟語がみられるようになったということは,茶を飲
むからこそ生まれた言葉であり,「茶碗」という言葉が9世紀の中頃から出現したこと
は,わが国における喫茶の風習が,矢張りその頃から始まったことを物語っているので
しょう。
 わが国における喫茶に関して,歴史の上における最も古い記録は,嵯峨天皇の弘仁6
年(815)のことで,「日本後紀」のこの年の4月22日の条に,天皇が近江滋賀韓崎カラサキ
に行幸され,崇福寺に詣でた後梵釈寺ボンシャクジを過ぎるとき,大僧都ダイソウズ永忠が煎茶
して献じたことが記されています。そして,それから50年経った貞観9年(867)に勘録
された「安祥寺伽藍縁起流記資財帳」に「白瓷茶瓶子一口」とともに「同(白瓷)茶碗
一口」が西影堂の什物ジュウブツ中に,また僧房具ソウボウグの中に「茶土完(土偏に完,以
下[碗]と記述します)六十一口」が記録されていますが,それらは明らかに喫茶用の
道具であったと考えられます。
 この白瓷ハクジ茶瓶子と白瓷茶碗は,中国から舶載された白瓷であったに違いありませ
んが,恰も中国では唐時代8世紀の終わり頃に,陸羽リクウが有名な「茶経」三巻を表し,
その中で喫茶に最も適したワンとして,越州窯の青瓷セイジ(ボストン美術館)と,ケイ
州ケイシュウ窯の白瓷ハクジとを挙げていますが,安祥寺の白瓷も,或いは入唐した安祥寺の開
基慧運(資財帳の筆者)が自身で持ち帰ったケイ州の白瓷であったかも知れません。白
瓷盞(東京国立博物館)は,碗ではなく盞サカズキですが,その頃のケイ州白瓷かといわれ
ているものです。
 ところが僧房具の「茶碗六十一口」は,ただ単に茶碗と書いてあるだけですので,ど
のような茶碗であったか分かりませんが,六十一口の茶碗が舶載品ではなく,いわゆる
弘仁瓷器であったかも知れず,もしそうだとしますと,9世紀の初め頃から尾張で焼か
れていた猿投サナゲ古窯趾出土の灰釉碗ハイユウワンのようなものであったかも知れません。
 宇多天皇の御遺物を記録した目録と云われています「仁和寺御物目録」は,天暦4年
(950)に録されたものですが,その中にも「青茶碗」や「白茶碗」が所見ショケンされま
す。この「白茶碗」はやはり「舶載品」であったに違いありませんが,「青茶碗」は,
舶載の青瓷セイジであったか,或いは平安初期に焼かれていました緑釉リョクユウの碗(重文 
群馬県立博物館)であったかも知れません。しかし,常識的に判断しますと,天皇の幽
興ユウキョウの茶具であるからには,恐らく舶載品の秘色ヒソクと呼ばれた青瓷の碗であったと
推測されます。そして後,承安5年(1175)後白河法皇の五十の御賀のとき,これらの
煎茶具を借り出して使われたことがありました。
 貴族の間では,舶載品が用いられていたでしょうが,僧侶など一般の喫茶碗としては,
既に述べました弘仁瓷器ジキの類が用いられていたに違いなく,「延喜式」に年料雑器と
して,尾張国から「茶小椀 径各6寸 椀廿口 径各5寸」,長門国から「小椀十五口 径
各6寸 茶椀廿口 径各5寸」などの瓷器の茶碗が,大椀や中椀・盞サカズキなどとともに
貢進されたことが記されていますが,これによりますと,当時茶碗には口径6寸から5
寸のものが当てられていたことが窺われます。
 以上のように,茶碗という言葉は,茶を喫することが始まってから使われるようにな
った熟語でありましたが,喫茶の風習が広まるにつれて,茶碗という言葉の意味は次第
に拡大されていって,瓷器又は磁器質のやきものの代名詞として用いられるようになっ
たらしく,「類聚雑例」長元9年の条に「以御骨奉納茶碗壷」また「十訓抄ジッキンショウ」
にも「獅子のかた作りける茶碗の枕を奉る」というような使い方がされています。骨壷
に使われています茶碗壷が,どのようなものであったかは分かりませんが,獅子形の枕
と同じく,宋の磁器であったに違いありません。このように,磁器の総称に茶碗という
言葉が用いられるようになりましたのは,矢張り貴族達が使用した喫茶用の茶碗の多く
が,舶載品であったことを物語っているのではないかと推測されます。平安末から鎌倉
時代におけるこのような用例は,室町時代に入ってからもみられますが,「君台観クンダイ
カン左右帳記ソウチョウキ」に,「茶碗物之事」という標題の中に青磁(輪花リンカ茶碗 馬蝗絆
バコウバン(重文 三井家)),白磁,饒州碗(青白磁)等が列記され,「土之物」として
曜変・油滴(国宝 酒井家)・建盞ケンサン(禾天目ノギテンモク)・玳玻盞タイヒサン(国宝 宮脇
家)などの天目テンモク茶碗が等級順に記されていますのは興味深く,この場合,「茶碗物
」は磁器であり,「土之物」は陶器を意味していることは明らかですが,これによって,
平安末から鎌倉にかけての「茶碗の何々」という場合の「茶碗」という言葉も,多くは
輸入の磁器を指していたものと推察されます。
 茶碗という言葉は,以上のように中世におきましては,可成り広い意味を持つ用語で
もありましたが,室町末から桃山にかけて,侘茶が流行するようになりますと,また本
来の茶を喫する碗としての用語に戻り,更に江戸期にはいりますと,「飯茶碗」「蓋フタ
茶碗」という言葉,幕末には「煎茶碗」という言葉も使われるようになって,用途や形
による区別が判然としてきたのでした。

[次へ進む] [バック]