29a 茶碗レクチャー1
 
11 志野シノ 橋の絵茶碗 「住吉スミヨシ」(桃山)
 総体ソウタイに掛かった白い志野釉クスリはよく熔けて,柔らかい釉肌クスリハダは抜群です。志
野には橋の絵を描いた茶碗が多いですが,この茶碗の絵付けは一際ヒトキワ鮮やかです。ま
た土肌ツチハダも志野特有の百草土モグサツチを見せ,然も二重ニジュウ高台コウダイに作られていま
す。
 
12 鼠ネズミ志野 桧垣ヒガキ茶碗 「さざ波ナミ」(桃山)
 胴に桧垣文様を表した鼠志野は他にも二,三見ていますが,その文様は明らかに彫三
島ホリミシマの文様を写したものと考えられます。腰高コシダカになった姿は「住吉」と比べて,
やや作為の強まりを想わせますが,恐らく時代も少し下がるものでしょう。
 
13 光悦コウエツ 黒楽茶碗 「時雨シグレ」(桃山末〜江戸初期)
 光悦の茶碗の中では最晩年の作かと想わせる程,その姿には落ち着きのある静けさが
感じられます。胴に掛かった黒楽釉は窯カマの中で飛び散ったのか,裾スソ廻りに残ってい
るだけです。高台は極めて低く削り出されています。
 
14 光悦 赤楽茶碗 「乙御前オトゴゼ」(桃山末〜江戸初)
 「時雨」が如何にも荘重ソウチョウな趣オモムキであるのに対して,この「乙御前」は一変して
丸味豊かな作振りです。光悦の茶碗の中では,最も親しみ深い姿の茶碗といえます。殊
に高台から腰廻りにかけての作振りは,妙味ミョウミに尽きぬものがあります。
 
15 唐津カラツ 奥高麗オクゴウライ茶碗 「深山路ミヤマジ」(桃山)
 唐津茶碗の中では古来,奥高麗と呼ばれているものが最も声価が高いです。素朴な姿
の中に佗びワビた味わいが感じられますので,佗茶ワビチャの世界で楽茶碗に次ぐものとし
て賞翫ショウガンされたのでしょう。
 
16 絵唐津エガラツ 胴筋ドウスジ茶碗(桃山)
 絵唐津の中でも最も初期の茶碗です。同じように絵が描かれていますが,志野のよう
に作為の強いものではなく,野趣ヤシュに富んだ絵付けは,唐津ならではのものです。高台
が二重高台に削り出されているのも唐津としては珍しいです。
 
17 萩ハギ 茶碗(江戸初期)(藤田美術館)
 萩焼ハギヤキも早くから茶碗を焼きましたが,中でも織部好みの影響を受けたこのような
茶碗は声価が高く,高台が桜の花弁ハナビラのように表されていますので,俗に桜サクラ高台
の茶碗と呼ばれています。千宗旦センソウタンが所持していたものです。
 
18 高取タカトリ 面取メントリ茶碗(江戸初期)
 高取焼タカトリヤキは遠州エンシュウ七窯ナナガマの一つとして名高く,江戸初期に小堀コボリ遠州の
好みの茶具サグを数多く焼きました。この茶碗も遠州の切形キリガタ(好みの形を紙で切り
抜いたもの)によって作られたと伝えられました。箱の蓋表に遠州の筆で「高取 面取
」と書き付けられています。
 
19 朝日アサヒ 茶碗 「老波オイナミ」(江戸初期)
 朝日焼も遠州七窯と伝えます窯で,恐らく遠州好みの茶具を焼いたのでしょう。この
茶碗は高麗の御本ゴホン茶碗の写しとして,江戸初期に焼かれたものと考えられます。瀟
洒ショウシャな作振りに時代の好みが窺われます。
 
20 信楽シガラキ 筆洗形ヒッセンガタ茶碗 「からたちばな」(江戸初期)
 遠州の切形によって信楽の窯で焼かれた,いわゆる遠州信楽の代表作です。聊か作為
の過ぎる嫌いはありますが,遠州らしい綺麗キレイ寂サビの茶碗です。
 
21 乾山ケンザン 梅ウメの絵エ茶碗(江戸中期)
 仁清ニンセイの茶碗は,前掲の「金菱文キンビシモン茶碗」のように優美な作風のものが多いで
す。ところが仁清に私淑シシュクして作陶サクトウを始めた乾山の茶碗には,雅趣ガシュの深い詩
情豊かな絵付けをしたものが多く,梅の絵は殊に好んで描きました。裏面に乾山自筆の
詩賛シサンが認シタタめられていますが,このような自画自賛ジガジサンの絵付けの茶碗は乾山
に始まります。
 
 
〈はじめに〉
 様々なやきものの器の中で,何が一番楽しめるだろうか,と問いますと,十人のうち
八人迄は「茶碗」と答えます。筆者も茶碗が好きで,茶碗程心を惹かれるものはなく,
茶碗程楽しめるものは無いという,茶碗憑きの一人になってしまいました。
 
 茶碗に魅せられている人,誰もが同じようにいうのに,「絵はやや隔たって静かに眺
めるだけ,壷は手には取れますが,その姿を眺めるときは,矢張り離れていなければな
りません。ところが,茶碗は違う,心ゆく迄手中でその釉クスリ肌に触れ,然も茶を喫する
ときは,唇にあてがうことができます。茶を喫し終わりますと,また,口作りから高台
コウダイに至る迄,じっくりとその作振りを手中で味わうことができます。芸術的な価値は
ともかく,茶碗ほど味わいのあるものはありません」と,茶碗愛玩の徳を讃えますが,
要するに,茶の風流に親しむ人々にとっては,茶碗は単なる器ではなく,かといって純
然とした鑑賞の芸術でもなく,もっと近く,親しい,語らいの相手なのです。
 茶碗程感情移入の度合に因って,良さ悪さの変わるものはないでしょう。早い話が,茶
碗の王様といわれ,室町末期以来,声価を恣ホシイママにしてきました「井戸茶碗」ですが,
その外観は,まさに粗末な茶碗に過ぎません。茶の世界を全く知らない人に見せたなら
ば,「これが名物とは」と呆れてものがいえないに違いありません。いうならば,茶碗
の美しさ,良さを味わうということは,決して論理的なものではなく,情感的な精神の
働きを大いに必要とします。
 また,茶碗は見て楽しむものではなく,一碗の茶を喫するところに,その醍醐味があ
ります。茶を飲んだ場合と,唯見ただけとでは,その茶碗に対する味わいは,可成りの
違いがあります。いわば茶碗は使うことによって,本当の良さが分かる訳で,見た目の
いいものが,必ずしも良碗とはいえず,つまるところ,人それぞれに「茶を飲んでうま
い茶碗がいい茶碗」というのが真実でしょう。ですから古来名物にされています茶碗で
も,全て茶がうまい訳でもありませんから,名物即いい茶碗とは言えません。名物にな
るということは,また別の条件が加わる訳です。
 ところで,緑茶・紅茶など,喫茶の風習は,今や全世界の文明人の好むところですが,
これを風流の場として生活の中に生かし続けていますのは日本人だけです。然も茶を喫
する茶碗に,数百年の伝来と,きめ細やかな美意識を以て,感情の移入を図る日本人だ
けですし,宋・元の名画と同等の扱いをしているのも日本人だけであり,種類の多いこ
ともまた世界一でしょう。
 本稿で紹介します日本の茶碗は,約百種位ですが,紙上においてそれらの一つ一つに
ついて,きめ細やかに解説をすることはなかなか難しいです。それぞれに味わいがあり,
その茶碗との対話を文章にするのは,もっと難しいです。ただ概説的に変遷と種類を述
べるに過ぎませんが,それは茶碗たちのとってあまり嬉しいことではありません。しか
し多くの読者が,これに拠って茶碗に親しんでいただければ,紙上の茶碗たちも,少し
は不満を和らげてくれるでしょう。
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