26b 茶道陶磁その3
 
  △渋紙手シブカミデ茶入(破風窯 銘藻塩モシオ 高8.2p,胴径6.0p 野村美術館):
 中興名物で,瀬戸破風窯渋紙手茶入です。茶入の侘びた趣に因み「古今和歌集」の「
 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答へよ」の歌意を銘としまし
 た。県宗知アガタソウチが「もしほ」と命銘し,後松平左近将藍乗邑ノリサトに伝わり,堀田相
 模守正亮マサスケ,竹田法印,古筆了伴コヒツリョウバン,土方縫之助ヒジカタヌイノスケ,青地家を経
 て,大正9年野村得庵ら入手するところとなりました。
  口造りの捻ヒネリ返しは抜群で肩は直角に近く,多少胴が張り,竪箆タテベラがみられま
 す。全体に渋紙手の黄釉が掛かり,火土ヒヅチが赤くむらむらと現れ,変化の多い釉調
 です。腰から下は土見ツチミで細くすぼまっています。
  △仁清色絵鱗紋ウロコモン茶入(高8.3p,胴径5.0p 滴翠美術館):仁清は唐物茶入の
 写しを盛んに試みました。近衛家には二十余種に及ぶ茶入が伝来しています。仁清は
 御室オムロに開窯する以前,茶入の製作修業のため瀬戸へ赴きましたが,「仁清伝書」に
 は茶入薬の記載が最も多く,如何に茶入について熱心に研究が行われたかが推察でき
 ます。唐物写しに始まり,仁清は独自の作風の茶入を焼造しました。それは現存の仁
 清茶入に極めて背の高い細茶入や,四方形茶入,装飾的な三段釉・色絵釉・金彩釉の
 茶入迄あることからも知られるところです。
  仁清茶入の形態的特徴は,口造りが極端に低いが十分に捻返しが行われ,肩は殆ど
 水平に近くかっきりと衝いている点です。また極細かい土が使われ,火土の発色の美
 しさを活かし,意識的に脛高ハギダカにして茶入の常識を破っています。漆黒釉と兎斑
 釉ウノフグスリに金彩を加え,雅やかな宮廷茶に相応しい茶入を作ったのです。
 
茶壷チャツボ:葉茶壷ハチャツボ・真壷マツボ・大壷などと,桃山時代には種々の名称で呼ばれて
 いました。利休時代迄茶壷は茶器の最上位に置かれ,床に飾られました。「山上宗二
 記」には,「唐物代物ノ高下ニヨラス,御床ニ厳カザル御道具ヲ名物ト云,大壷并三ツ
 石ハムカシヨリ御床ニカザリタル也」とあります。
  近代になり十一月開炉とともに茶壷飾りをして,封を切り,口切クチキリの茶事を催す
 ことが慣例となりました。濃茶用には袋茶,薄茶用には詰茶とされます。なお,茶壷
 には付属品として口覆クチオオイ・口緒クチオ・網・長緒・乳緒があり,装束ショウゾクとも呼ば
 れています。「松花」には「五ツ爪之龍段子ヲヽイ,ウスアサギノヲツガリ,壷之ウ
 シロノ方ニ松花ト書付アリ」と記され,珠光所持のときに珠光緞子ドンスの口覆が掛け
 られ,萌黄モエギの緒が使用されていたことが窺えます。
  △松花ショウカ茶壷(大名物 高38.6p,底径14.4p 徳川美術館):室町末期の茶書
 「烏鼠ウソ集」に「清香に金花,松花のあるも名物」と詠まれ,「信長公記」の天正4
 年(1576)安土城完成祝の品名目録に記されています。伝来は珠光ジュコウ・信長・秀吉
 ・堀直政・秀次・油屋次郎左衛門・家康が知られ,後尾張徳川家に入りました。
  △仁清藤絵フジノエ茶壷(国宝 高28.8p MOA美術館):仁清色絵茶壷の代表的傑作
 です。形は呂宋ルソンの真壷形マツボガタで,見事な轆轤ロクロです。藤の蔓と花は首下から腰
 辺り迄巧みに配置され,華麗にして優美な装飾主義的表現がみられます。紫と銀の花
 は赤で,赤は金で縁取りされ,葉の葉脈は針描きで表されます。
 
茶碗チャワン:茶湯にとって茶碗は必要不可欠のものであることはいうまでもありません。
 しかし何れの茶碗も何時どのような場合にでも使用出来るというものではありません。
 書院台子ダイスの茶には天目と天目台が必要ですし,侘茶の濃茶では幾人かが飲廻しの
 できる大きさが要請されます。薄茶には濃茶とは違った軽妙で典雅なものが用いられ
 るでしょう。季節により,茶席の大きさや,ほかの道具の飾付けにより,茶碗もまた
 自ら選ばれるものなのです。
  濃茶には濃茶に相応しい茶碗があり,薄茶には薄茶用のものがあります。また濃茶
 茶碗の中でも,薄茶に用いてよいものもあり,本来は薄茶茶碗ですが,場合によって
 は濃茶にも用いられますものもあります。つまり,それぞれの茶碗の特性を活かし,
 その機能性を十分に理解した上で使用しなければなりません。
  茶碗はまた,各々の格や位を持っています。主オモ茶碗として使用できるもの,替茶
 碗として相応しいものなど,茶碗の持つ風格や時代がこれを決定するのです。今日の
 ように主茶碗のほかに替茶碗を取合せることが一般化しますと,なおさら格や位の問
 題は重視されてきます。古来高麗茶碗を第一とし,国焼茶碗,楽茶碗(手造茶碗も含
 めて)の順位が認められてきましたが,茶の隆盛は高麗茶碗や国焼茶碗の不足を招き,
 更に楽茶碗にまで及んでしまったのが現状です。千家では楽茶碗を尊重しますが,決
 して高麗茶碗や国焼茶碗の上位に置かれ得るものではありません。手前座テマエザの水指
 や茶器との取合せを十分考慮して,茶碗の組合せを決めなければなりません。
  古来,茶碗の分類は天目・高麗・国焼・楽焼に分類されています。
 (1) 天目テンモク茶碗
  名称の起こりについては定説はありませんが,恐らく中国浙江省の天目山の仏寺の
 常什ジョウジュウであったのを,鎌倉時代渡宋した禅僧達が持ち帰り,喫茶の法も天目山
 辺りから修得して帰朝したことによるのでしょう。天目山に近接した福建省には建窯
 があり,耀変ヨウヘン・油滴・灰被ハイカツギ・黄盞・烏盞ウサン・兎毫盞トゴウサンなどを産出しま
 した。またわが国でもこれを模して瀬戸天目が焼かれ,後には白天目・燕ツバクロ天目・
 菊花天目が現れました。
 (2) 高麗コウライ茶碗
  朝鮮高麗期から李朝にかけて作られました朝鮮茶碗の総称ですが,わが国から「御
 本」(お手本・切形)を以て作らせたのは,厳密には「高麗茶碗」には含まれず,「
 御本茶碗」の範疇に入ります。従って高麗茶碗は井戸・三島・熊川コモガイ・刷毛目・粉
 引コヒキ・堅手・玉子手・魚屋トトヤ・柿蔕カキノヘタ・呉器などです。しかし広義では,御本・
 伊羅保イラボ・御所丸などの御本茶碗も,高麗茶碗と呼ぶこともあります。
 (3) 国焼クニヤキ茶碗
  わが国のあらゆる地方で焼造された茶碗の総称ですが,分類の都合上,楽焼以外の
 ものをいいます。特に桃山時代以後,茶湯の盛行とともに急激な国焼陶器の発展をみ
 ました。また利休・織部・遠州・三斎・宗和などの指導注文により,地方の諸窯にお
 いてもその茶陶の水準は急上昇し,名工を生む結果となりました。
 (4) 楽ラク茶碗
  千利休の指導と好みに因って,長次郎が茶碗を焼き始めて以来,千家と深い関係を
 保ち,歴代茶匠の指導を受けながら今日迄15代に亘って,楽家は連綿と楽焼を続けて
 います。長次郎は宗易形を完成し,常慶は香炉釉を,ノンコウは朱釉・幕釉・蛇蝎ジャ
 カツ釉・黄釉などを試みた名工です。宗入は原叟ゲンソウに,左入は如心斎に引き立てら
 れ,各々「二百ノ内」の茶碗を作っています。
  京楽家を本窯と呼び,その他の楽焼窯を脇窯ともいいます。
  (以下,茶碗の個別紹介は省略します。)
 
                       参考:保育社発行「茶道用語辞典」

[次へ進む] [バック]