23 茶の湯と抹茶茶碗の歴史
茶の湯と抹茶茶碗の歴史
参考:平凡社発行「茶碗百選」
釣りは,鮒に始まって鮒に終わると云われ
ております。
また,パソコンは,ベーシックに始まって
ベーシックに終わると自分は思っています。
プログラムの構成やデータ処理の実行状況,
データの入出力や修正など,ベーシック言語
によるプログラミングは,コンピュータによ
るデータ処理の基本的なことを分かりやすく
理解させてくれます。プログラムの流れを農
作に例を採ってみますと,まず農地の取得か
ら始まって,耕耘して種子を蒔き,施肥・除
草・間引きなどの保育管理をしっかり行い,
天候に感謝しつつ秋にはその稔りを喜び,や
がてその収穫物が広く人々の糧として有効に
役立つこととなります。このような一連の作
業や成果の活用(いわゆる「コンピュータ処
理」)の順序をプログラムとして記載します
と,コンピュータはそのプログラムに従って
作動し,その処理結果としての成果を提供し
て私共を満足させてくれます。
さて,陶芸におきましても,茶碗に始まっ
て茶碗に終わると云われております。
茶碗と申し上げても飯茶碗や湯飲み茶碗で
はなく,いわゆる「抹茶茶碗」のことです。
抹茶茶碗を作ることは,作陶を志す者にとっ
て最も大切な基本技術であるとされています。
そして,抹茶茶碗たる所以は,飯茶碗など
の食器とは異なり,茶碗そのものを自己の占
有とすることによって活きてくるからです。
抹茶茶碗を手に持ってみますと,抹茶から漂
ってくる芳しい薬味と,茶碗から伝わってく
る温もりや感触,そして釉薬による巧みな装
飾美によって,やがて自己と茶碗と,それら
を取り巻く空間とが混然と溶け合って,そこ
には一つの小宇宙が形成される,ということ
ではないでしょうか。
抹茶茶碗はまた,作陶する上で形や大きさ
が手頃でして,最も身近に感ずる題材なので
す。作っても作っても,なお飽くことがない
不思議な魅力を秘めているのが茶碗なのです。
本稿は,平凡社発行の大河内風船子氏著「
茶碗百選」を参考に,抹茶茶碗の歴史と,そ
れぞれの時代を代表する茶碗について記述し
てみました。 SYSOP
〈はじめに〉
抹茶茶碗については,まず茶道陶芸史の観点から考えることにします。
一つは,茶の湯において用いられております天目茶碗,高麗茶碗が何時頃から使用さ
れることとなったのでしょうか。
次に室町の会所カイショ茶の湯時代において,従来足利義政等の将軍が,自分で点前テマエを
したかのように伝わっていますが,将軍は勿論のこと,武士・公卿クギョウは文献上では点
前をしていません。従って会所茶の湯においては,将軍や武士,公卿は抹茶茶碗を始め
とする茶陶の製作には全く関与していないものと考えられます。室町末期になって武士
が点前をしはじめたのは,町衆茶の湯が成立してから,町衆に置合わせと点前を教わっ
てからです。このような武士たちは,下克上ゲコクジョウの武士でありました。
次に桃山末期以後,茶陶の製作や発展に最も貢献してきましたのは天皇,公卿,武士,
僧侶です。茶陶の発展に貢献した窯は,楽など一部を除き,9割以上は前述の天皇をは
じめとする階級の人々が築いた窯なのです。これらの窯は江戸末期まで続き,明治維新
後は経済的に自立できた窯のみが,現在まで継承されています。
茶の湯としての抹茶茶碗の成立は,闘茶トウチャの行われた時代からと考えることができ
ます。
以上を踏まえて,抹茶茶碗の史略を述べるとともに,現存する当時の茶碗の中から,
著者好みのものをリストアップしてみましょう。
〈1 会所茶の湯時代/会所と茶碗〉
文献上闘茶が行われたのは会所(貴族の客殿)であって,会所の茶の湯は闘茶と,会
食の後に抹茶を飲むことから始まりました。抹茶茶碗を大量に輸入したり,瀬戸窯で作
らせるようにしたのは,闘茶のためでありました。
その闘茶が何時頃から行われたかということを,推察できる資料が二つあります。
一つは,数年前(昭和59年頃より数年前)に引き揚げられました韓国新安海底遺物で
す。この遺物を積んでいたのは,海賊を兼業していた密貿易船でした。この船が日本向
けの商品を積んでいたものと推測できます。例えばそれは,天目テンモク茶碗11個,黒・褐
釉袋形小壷7個,青磁セイジと白磁の香炉146個,青磁酒会壷シュカイツボ9個,青磁と白磁の
花瓶61個,青磁茶碗266個,青白磁茶碗461個などです。このうち,茶の湯向きでないも
のも沢山ありますが,初期の茶の湯は,殆ど全部唐物カラモノでした。その頃は,茶の湯に
似つかわしくないものや,異形物のものも,茶碗として用いられていましたので,前述
のように分類してみました。
これらのうち例えば,,天目茶碗はやや形が崩れていますが,このような天目茶碗は
室町末期の町衆茶会ではよく使用していました。黒・褐釉袋形小壷は中国の雑器ですが,
茶人は茶入として使用していました。花瓶は砧キヌタ青磁,天竜寺青磁と称して茶人が愛玩
してしていました。
二つは,徳川美術館蔵の伝趙子昴チョウスゴウ画「琴棋キンキ書画図」四幅です。趙子昴は南
宋末〜元末の人で,前出の沈没船とほぼ同時代です。この絵には中国の土足,机,椅子,
寝台などが描かれており,日本の茶の湯を連想できませんが,召使いが立ったまま大き
な白磁の鉢で抹茶を大量に点てて,天目台に載せた白磁茶碗に分けて入れています。
闘茶が頻繁に記録に現れるのは延元4年(1339)からですが,康永2年(1343)頃に
は茶十種・二十種・三十種・百種の闘茶が記録されています。百種ということは百種類
の茶が飲まれることになります。一種一碗としますと一人で百碗必要になります。闘茶
会が多く開かれますと,天目茶碗も莫大な数になります。瀬戸天目茶や,天竜船による
中国の天目茶碗だけでは間に合わず,密貿易船による持ち込みもあったことは確実です。
その後後花園天皇の父君後崇光院ゴスコウインが,京都御所の常御殿ツネゴテンを会所として茶
会を催したのが会所の茶の湯の先駆であり,足利義教ヨシノリ将軍時代(1429〜41)に,会
所の茶の湯が大成します。これによって闘茶は廃れていきます。
この時代に唐物天目茶と瀬戸天目茶碗が大量に用いられていました。
曜変ヨウヘン天目茶碗 銘稲葉イナバ 国宝南宋 径12.0p 静嘉堂文庫
油滴天目茶碗 重要文化財南宋 径19.4p 静嘉堂文庫
禾目ノギメ天目茶碗 南宋(建盞) 径12.6p
灰被ハイカツギ天目茶碗 南宋 径12.2p
金彩文字天目茶碗 南宋 径12.7p
玳皮タイヒ天目茶碗(鸞ラン天目) 南宋 径12.7p
木葉コノハ天目茶碗 重要文化財南宋 径14.9p 大阪市立東洋陶磁美術館
青磁セイジ茶碗 銘馬蝗絆バコウハン 重要文化財南宋 径19.4p 東京国立博物館
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