16 「珠玉の香合」香合の歴史
 
                      参考:朝日新聞社発行「珠玉の香合」
 
                     フランスの政治家で元首相のジョルジュ
                    ・クレマンソー(1841〜1929)が集めた日
                    本の香合3,500点の大コレクションのうち、
                    600点の「珠玉の香合展」が1978年東京日本
                    橋高島屋など各地で開催されました。本稿
                    はその出品目録に解説されている「香合の
                    歴史(解説者長谷川楽爾氏)」を参考にさ
                    せていただきました。      SYSOP
 
 香合は香合わせと読みますと、合わせた香の優劣を競う遊びのことになりますが、こ
こで云う香合とは、香を入れる合子(盒子ゴウス)のことです。合子は蓋のある器のこと、
子は助字で一種の「はこ」と見てよいでしょう。香は匂いの大切なものですので、蓋が
ぴったりと合う器に入れる訳で、蓋と身とが合うものであれば、どんな形のものでも、
どんな材質のものでも、香合として使えるのです。しかし古い香合は大概円形で、上下
が平たい、安定の良い形をしています。また香料は貴重なもの故、あまり大きいものは
なく、元々小形のものが多いようです。
 
 香合は何時頃から始まったのか、これは香料の歴史とも関係があり、なかなか難しい
問題です。丸い香合に似た容器は、中国では、戦国時代の遺跡として名高い河南省洛陽
金村で、銀製のものが出土しています。また湖南省長沙の戦国墓で、漆塗りの合子が幾
つも発見されています。そうした合子が、実際に何を入れたかは、よく分かりません。
近年発見された長沙馬王堆の漢墓の例を見ますと、小形の合子は大概化粧道具だったら
しく、白粉オシロイや紅、油状のものの入った漆塗りの小合子が数個一組になって、大形の
合子即ち化粧箱に収められていました。ただし報告書を見ますと、小合子の一つには「
香草類植物」が入っていたとのことで、漆塗り合子はときには香合として使われたこと
もあったのです。
 
 唐時代になりますと、合子の資料は非常に多くなります。金銀の合子があり、唐三彩
の合子があり、青磁・白磁の合子があります。1970年に西安の南方の何家村で、大量の
金銀器を埋納した穴蔵が発見されました。これは唐の長安城の興化坊と云う処で唐の王
族の分(分+邑オオザト)王の居宅があった場所であり、埋蔵物は安禄山の反乱の際に、分
(分+邑オオザト)王の家宝を隠したものと推測されています。出土品の中には216点の金
銀器が含まれていたが、その中に合子が二十数個ありました。興味深いのはそれらの用
途です。それらの大部分には、白英・紫英・朱砂・乳石・琥珀と云った薬物ヤクモツ即ち仙
薬が収められていました。然も幾つかの合子の裏蓋には、その薬物の名称や量が、墨で
丁寧に書き付けてありました。唐の『新修本草』に拠りますと、これらの仙薬は鎮静剤
や強壮剤としての効用があるとされており、恐らく不老長寿を願った貴族達が服用した
ものであろうと報告書は云っています。これらは香合ではないけれども、貴重な薬物を
大切に保存する容器であると云う点で、香合に非常に似た使われ方をしているのです。
なおこの一括遺品の中には、ペルシャの銀貨や東ヨーロッパ帝国の金貨などに混じって、
日本の「和同開珎」銀貨が5枚ありました。薬物の中には、遠い異国から遥々運ばれた
ものもあったかもしれません。
 
 やきものの小合子が目立つようになるのも、唐時代からです。長沙の7世紀頃の遺跡
で出土した、スタンプ文様(印花)で飾った小さい合子とか、西安・洛陽の唐墓で出土
した三彩サンサイ合子、特に藍釉ランユウの掛かったもの、長沙出土の9世紀頃と想われる白磁
型押の合子、また各地で発見されている唐・五代の白磁合子、越州窯の青磁合子など、
枚挙にいとまがありません。
 
 こうした唐のやきものの合子は、日本でも出土しています。京都の仁和寺は宇多天皇
が創建された寺ですが、天皇は譲位の後、延喜4年(904)寺内に円堂を建立し、その傍
らに庵室を建てて起居されたと伝えます。1915年、この仁和寺円堂の跡から、純金の合
子、銀の小合子、白磁の合子、青磁の合子大小2個が出土しました。これらは円堂の建
立に当たって、地鎮具ジチングとして基壇の地下に埋納したものと考えられています。こ
のように地鎮具、鎮壇具などとして小容器を埋葬することは、早くから行われたことで
す。それらの中に何が入っていたと云う例はありませんが、恐らく仏舎利を埋葬するた
めの舎利容器と似た考え方で、何か貴重なものを入れた容器と想像されます。こうした
場合に、香料のようなものを合子に収めることが、あったかもしれません。有機物は長
い間に土中で消滅してしまうので、証拠は何も残りません。この白磁合子は丁度後世の
香合のように、手の中に収まってしまうような可愛らしいものです。
 
 日本出土の中国製合子としてよく知られているのは、平安・鎌倉時代の経塚から出土
する影青インチン合子です。影青は青みを帯びた白磁のこと、経塚は写経を埋納した塚のこ
とで、日本全国に亘って平安・鎌倉時代の経塚が沢山見つかっており、それからよく影
青の合子が出土しているのです。その総数は数百にも及ぶでしょう。全て型作りの小合
子で、大概上の面に、草花や鳥、七宝文、小花文などの型押文様が浮かんでいます。こ
れがとう云う用途を以て経塚に収められたのか、未だはっきりしません。中にはガラス
の小玉を入れた例などもありますが、大体は何も入っていません。然も元々の用途も製
作地も、よく分からないとされてきました。
 
 これらの用途について、一つの手がかりがあります。有名な厳島神社に、付近の経塚
で出土した一つの影青合子が伝わっています。この合子の身の中には三個の小皿を取り
付けてあり、撚り紐をその間に置き、中央には蕾の形をしたものが付けてあります。こ
れはそれぞれの小皿を花に見立て、合子の中に三つの花のうてながあると云う訳で、こ
の皿に何かを載せるようになっているのです。この場合の「何か」は、極めて少量で、
極めて貴重なものであるに違いありません。然も浅い皿状のものですから、転がったり
飛び出したりするものでは具合が悪い。小皿にねっとりと取り付いて、持ち歩いてもこ
ぼれないような「何か」でなければなりません。それは膏薬のようなものかも知れませ
んし、煉り香のようなものかも知れません。ただ膏薬の容器ですと、その使用後の空箱
を経塚に収めるようにことはないでしょう。少量でごく貴重な香料の類こそ、この合子
の内容品に最も相応しいと筆者は思います。。
 
 内容品が貴重なものであるために、容器も丁寧に作られ、また丁寧に取り扱われたの
ではないでしょうか。後にこの種の影青合子は、屡々香合として使われています。これ
は恐らく本来の用途に近い使われ方と思われます。なおこれらの合子の底に、制作者の
商号と考えられる「陳家合子」「劉家合子」と云った文字が、型押で表されているもの
があります。当時こうしたものを矢張り合子と呼んでいたことが、これによって分かる
のです。製作年代は12世紀頃、製作地はいろいろの点から、福建省浦城窯であろうと筆
者は推測しています。
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