15a 陶器焼き窯考
 
△筑前(福岡県)
井戸焼・高取焼
 鷹取焼は加藤清正が朝鮮から瓷器を作るものを連れて帰り、肥後で瓷器を作らせまし
た。名を井戸新九郎と号したので、その器を井戸焼と云います。
 後に黒田長政が韓人八蔵を筑前に招き、氷雪が居城鞍手郡鷹取で瓷器を作らせました
ので、鷹取焼と云います(筑前国続風土記 二十七土産)。
 
△筑後(福岡県)
柳川焼
 文禄元年、鍋島加賀守が朝鮮から焼物師らを連れて帰り、肥前名護屋で半多土鍋、土
器を作って太閤に献上したと云う(本朝陶器攷證 一)。
 
半田焼
 半田土鍋ホウロクは、下妻郡水田村で製すると云う(筑後志略 地)。
 
△豊前(福岡県)
上野焼アガノヤキ
 上野焼は、唐人の日用雑器の焼物師が豊前で茶具を焼きました。この人を渡左衛門と
云う(陶器考 附録)。
 
△肥前(佐賀県)
伊万里焼
 伊万里は商人の集まる津(港)で、焼物を作る処ではありません。近隣にある二十四
五所のうち、出来の良い十八の窯の焼物を伊万里焼と云う(伊万里陶器伝)。
 
唐津焼
 一、唐津焼、高麗左衛門に始る。高麗と称するものは、朝鮮忠清道の西北に唐津監あ
り。唐の船付にて此地の焼物なり。土薬を見るに朝鮮なり。古唐津は似て違へり。
 一、朝鮮唐津に二手あり。土薬ともに朝鮮の物あり朝鮮唐津なり。唐津土朝鮮薬あり
朝鮮焼唐津焼なり。和訓同じき故に物を一つにしたる也。掘出し唐津の内より、色々の
変物を見出せり。ととやもあり。
 一、日本、昔はおもに外国の焼を用ゆ。皆当座日用につかふ故に残る物まれなり。唐
津は元唐よりの船付なれば、持来れる品の内、われゆがみたる物を、はね出して埋みた
るなり。掘出し唐津の内、朝鮮、南蛮、呂宋、井戸の下手物見ゆ。此品々も上手の物は
知れど、下手ものを見知らぬ故なり。其時のはねもの有故、幸に古物の残れるなり。肥
前の士、長崎詰の茶漬茶わんとて、珠光青磁を数持たるを近頃買来れり。是にて古来外
国の品を用ひたること明白なり。故に珠光青磁三島のかけたるを掘出すなり(本朝陶器
攷證 三)。
 唐津焼物の事、肥前国なり。茶碗、水指、水こぼし、花生、鉢皿、徳利の類あり。其
中に古き茶碗、花生に重宝の物あり。土色はざんぐりとすねたるやうにて、薬につや少
し有。細かなるくはんゆう有、大方は色薄よもぎのあさぎにして、鼠がゝりなる色なり。
又薄かき色に朱をさしたるやうなり。あかきたすき筋あり、かならずの事なり。総じて
肥前焼の類、土かたくして何に用てもつよし。諸道具多き中に、茶碗、茶壷は別してす
くなし(萬寶全書 八)。
 
△肥前(長崎県)
平戸焼
 平戸焼のせとものは、元三河内焼と云いました。高麗国より老嫗が帰化して、肥前国
平戸中野村で陶器を作り、これを平戸焼とも中野焼とも呼び、今に残るその古器は高麗
に等しく、非常に古色で、殊に茶人が賞翫しました。老嫗後に松浦三河内村に移住し、
息子が家業を継ぎました云々(松屋筆記 六十二)。
 平戸領早岐郡三河内山陶器の草創は慶長三年、松浦式部卿法印鎮信が朝鮮熊川の陶器
師巨関を連れ帰り、平戸島中野村で初めて陶器を作りました。これを中野焼と云い、高
麗風の作りでした。
 巨関の子三之丞は、中野村土がよくないので日宇村藤原山に移って焼いたので、これ
を藤原焼と云い、三島手の作風でした。
 慶安三年より今の三河内に移り、三代を弥次兵衛(法名如猿)と云い、南京風の白手
を染付て焼きました。また筑前国の竹原五郎七に学んだとも云い、これを五郎七焼と云
う(本朝陶器攷證 一)。
 
亀山焼
 長崎亀山焼は初め、八幡町大神甚五平が伊良林郷の垣根山で文化元年頃から水甕など
を焼き、外国人(紅毛人)が年毎に買って帰りました。その後文化十一年に白焼を始め、
南京渡り染付物などの写しを新製しました(本朝陶器攷證 二)。
 
△肥後(熊本県)
八代焼
 肥後八代焼は寛永九年、豊前上野郷から上野喜蔵親子が八代に移り住み、俸禄を給い
て陶器を製しました(本朝陶器攷證 一)。
 
小代焼
 肥後小代焼は、豊前出身の北小路又左衛門、葛城安左衛門の二人が御用の窯元となっ
て、居所近くの玉名郡南賀手永宮尾村の小代山の麓で焼きました。この山の名は摺墨山
とも云い、二人は宮尾村小名龍の原に住んでいたので龍の原焼とも云います(本朝陶器
攷證 一)。
 
△薩摩(鹿児島県)
 慶長三年に帰化韓人朴平意らを薩摩国日置郡串木野郷に移転させ、下名村に築窯(元
壷屋)し、高麗伝の陶器を製造しました。同八年に伊集院郷苗代川村に移住し、翌年築
窯しました(府県陶器沿革陶工伝統誌)。
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