14a 陶器焼き窯考
 
△近江(滋賀県)
信楽焼
 信楽陶器は、信楽勅旨村黄瀬村より出ております。福山と云う者が廃帝の詔を奉って、
この地に磁器を作ったと伝えられます(近江国輿地志略 三十志賀郡)。
 古信楽と云うものは、弘安年間に作られたもので、極疎末な壷類に過ぎませんでした。
その後点茶の宗匠紹鴎、利休、宗旦、遠州などが工人に命じて作らせてからは、これら
の人の名の冠して称美されました。このほかに空中信楽とか仁清信楽などと云うものが
ありますが、これは空中、仁清が信楽の土をもって諸器を作ったときの名です(瓢翁夜
話 一)。
 
膳所ゼゼ焼
 膳所焼は遠州(小堀政一)時代に、遠州公の好みによって焼き始め、宗旦時代より古
いと云います(茶道筌蹄)。
 近江国膳所焼陶器は、三四百年前に膳所焼と申していたと云われますが未詳。
 また、膳所領江州滋賀郡膳所城下宮町瀬戸物渡世の小田原伊兵衛に拠りますと、彼は
以前土器を好み、同領内の中之庄村梅林山から土を採り、茶器類を専ら作って梅林焼と
呼び、自宅の裏に窯を築いて、売っていたと云います(本朝陶器攷證 二)。
 
比良焼
 江州比良焼の焼き始めのことは未詳ですが、茶碗山と云う小山から土を取り出し、茶
碗畑と云う処に窯の跡があると云います(本朝陶器攷證 二)。
 
△美濃(岐阜県)
 磁器ヤキモノは、土岐郡久尻、駄知、多治見、下洞、妻木、下石、笠原などに出ます。こ
のうち久尻(郡尻)の焼物窯は、古くから作っていました。久尻窯の元祖加藤筑後と云
う者は、延喜式貢物としてこの地から出したと云う。古瀬戸は藤四郎が焼出し、尾州春
日井郡瀬戸や妻木久尻焼も城下では瀬戸と云いました。不破郡昼飯村では寛政年中に焼
物が始まりました(美濃名細記 十一土産)
 
養老焼
 天保の末に尾張海東郡津島の周吉と云う数奇者がおり、陶器を焼くことを好み、時々
瀬戸に行って窯を借り受けていろいろの茶器類を焼いていました。晩年に美濃の養老山
へ行って小窯を築いて茶碗を焼き、杉柾の曲物に入れて友人に分かち与えていましたが、
殊の外見事な出来映えで、人々は養老焼と称して珍重したと云います(休翁閑話)。
 
△陸奥(福島県)
会津焼
 奥州の会津焼は、白薬に藍絵の白土の茶碗、水指などがあります。安南の風を写した
もので、新古あり、土地の相馬焼に似ます(陶器考 附録)。
 
相馬焼
 奥州相馬焼は、馬の絵のある茶碗その他あって、世に知られています(陶器考 附録
)。
 奥州相馬宇田郡中村田町の田代五郎左衛門信清は、大守大膳亮義胤公御代の慶安元戊
子年に大坂御加番のための道中に、浪人の身分ながらお供いたしました。この時瀬戸焼
の稽古を命ぜられ、京都野村仁清の弟子となりました。そこで御室焼を稽古しました。
その孫三郎信通(五左衛門と改名)が万治二年に再び京都へ上り、御室焼を伝授されま
した。その後窯を屋敷内に造り、土は中村の北黒木村小野木村などから採って焼物を造
ったと云う(本朝陶器攷證 一)。
 
△加賀(石川県)
九谷焼
 加州九谷焼は、明暦メイレキ元年六月二十六日加州江沼郡久谷村において初めて焼出しま
した。
 大聖寺御二代飛騨守様の御時、楽焼がお好きにつきお手作りされました。その頃近臣
のうちに後藤三次郎と云う巧者がお手伝いをしていましたが、高麗に渡って伝授を受け
て三年以内に帰国するよう命を受けました。それから慶安三年に高麗へ渡ったが中々伝
授を許されませんでしたが、色々思案し、その国の住人として心を落ち着け、婿入りし
程なく一子出生したところ、ようやく伝授されました。それから日本へ逃げ帰ったとき
は六年も経過していました。そのときは殿様は既に御逝去されました。ご臨終のとき、
「三次郎と云う者は、この後に帰国しても用事の無い者とする」と家老始め夫々へ仰せ
られた。三次郎は帰国してもお暇の身となりましたが「高麗では自分は好んで習い、骨
を折って稽古しました。このため長い間逗留することになりました」。ご評定の上、多
少の扶持が与えられ、山篭りを仰せ付けられました。それより三次郎、並びに田村権右
衛門と二人で、九谷において焼始めました。その頃画工狩野守景が絵修行で行脚して九
谷に参り、下絵を描きました。後は藤一代で休窯となったと云います(以下略)(本朝
陶器攷證 一)。
 
九谷焼(吸坂焼)
 古九谷焼に三種あり、一は白磁に青、緑、紫、黄、赤色の彩釉を以て、狩野風の画、
或いは紋様を施すもの、二は硬質の土色を帯びた素磁に、青、緑、紫、黄の彩釉を以て
塗り詰めた交趾薬、又は青九谷と称すもの、三は瀬戸風の世に渋薬と称す釉薬を以て、
抹茶器類を製して、吸坂焼と称するものです。吸坂焼のものは、九谷陶窯の中で吸坂村
の土石を以て作ったのものか、よそに陶窯があったものか未詳(加賀陶磁考草)。
 
大樋焼
 加州大樋焼は、明暦二年京都河原町の土師長二が焼始め、京都では千家の好みで焼い
たと云う。加州四代松雲院のとき、千家に同道して加州に下り、それより召し抱えられ
て石川郡金沢大桶の地に住み、窯は今まで同じところと云います(本朝陶器大概抄)。
 
若杉焼
 若杉陶窯に関する文政二年の達書(お触れ)に拠りますと「加州能美郡若杉村におい
て焼いた石焼陶器はよく出来たので、来春より他国からの石焼陶器を城下で差し止め、
若杉焼を以てこの国用とする。云々」(加賀陶磁考草)。
 
吉田屋焼
 吉田屋窯は文政六七年頃「若杉陶器が始まった頃より越してきて、窯を焚き薬を懸け
るなどして見習い、ようやく用立てることが出来たので、前月上旬より大聖寺御領九谷
と云う処で、陶器窯取り立て云々」(加賀陶磁考草)
 
△越中(富山県)
 越中瀬戸焼は文禄二年、せとやき彦右衛門に拠りますと「上瀬戸村七兵衛が越中国に
おいて、瀬戸焼の類を間違いなく其処で焼いていた」と云います(越中陶磁考草)。
 
△佐渡(新潟県)
 佐渡相川焼は相川金太郎焼のことで、名は黒澤金太郎で寛永十二申年から焼広め、当
時まで四代続けて焼いてきました。西国の人より口伝を得て、土地の土で焼き、以前は
瓦焼を代々焼いてきたと云う。窯は雑太郡羽田村の富士権現に築き、土も権現の山の土、
焼物には佐金と刻していたと云う。
 また佐州相川南澤町の住人伊藤甚衛は、慶長の頃より金銀山吹子の羽口師で、文化年
中に楽焼口伝を得て、茶器類を専ら焼き出し、段々隣国へも売り広めたと云う。窯は同
町内に、土は金太郎同様富士権現の土を用い、焼物に銘雲山と印し、通称羽甚と称して
いました(本朝陶器攷證 一)。

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