14 陶器焼き窯考
 
△尾張(愛知県)
瀬戸焼
 尾張東方に瀬戸山があります。「せと」とは海路の磯近くの、山と島の間を云い、迫
渡と書きます。尾張国愛知郡と云う海の遠い地に「せと」の名はどうしてでしょうか。
尾張陶器は知多郡の海辺より焼き始めましたが、薪が無くなったので段々と北の方に移
って行ったと云う。「せと」の名は、初め知多の瀬戸より起こったものです(塩尻 十
)。
 後堀河帝の貞応ジョウオウ二年に永平寺の開山道元禅師に随行して入唐した加藤四郎(藤
四郎とも、法名を春慶と号す)は唐土(今の中国)に五年滞在し、陶器の作り方を伝授
されて、安貞アンテイ元年八月に帰国しました。その時唐土の土と釉薬とを持ち帰り、初め
て尾州瓶子窯にて焼いたものを唐物と云います。これらの陶器は小瀬戸とは異なります。
小瀬戸とは小さめに出来たものを云います。入唐以前に焼いたものはちぐはぐで、厚手
で掘出し手と云います。大名物は古瀬戸と云い、唐物です。真に唐土より渡来したもの
は漢と云い、これは重宝しないので、唐物と混同してはなりません。掘出し手とは出来
が悪くて窯の土中に埋めたものを、後に掘出したものです。一説には小堀公(小堀政一
)時代に掘出したものと云う。総て入唐以前の作は出来は無粋で下作に見えます。
 古瀬戸に煎餅手センベイデがあり、これはどの窯からも出ますが、窯の内で火気が強く中
り、上薬が灼けすぎたり、陶土が膨れたりしたものです。後に唐の土が少なくなったの
で、わが国の土を合わせて焼いたものを春慶と云います。
 元祖加藤四郎のを古瀬戸、二代目藤四郎のを真中古物又は藤四郎春慶、三代目藤四郎
と四代目藤四郎のものを中古物と云います(古今名物類聚 一)。
 
染付焼
 尾張春日井郡瀬戸村の土は、陶器によく合って最上なので、古今種々の器物を焼き試
しても失敗しませんでした。しかし往古より南京風の陶器を焼き得ることは出来ません
でした。そこで府下の藩士津金文左衛門胤臣の工夫により、享和キョウワ元酉年より試焼き
しましたが、薬の加減など未だ不十分でした。陶工加藤吉左衛門の二男民吉が土の調合
や焼き方の秘奥を熟練して焼き初めたところ、その細工の絶妙、伊万里唐津は勿論、唐
製にも決して劣らない染付のものを焼き出しました。その後次第に窯数が多くなり、今
は本業窯よりも染付の丸窯が多くなりました(尾張名所図会 後編四春日井郡)。
 
常滑焼
 常滑焼は、尾張知多郡常滑トコナベ村にて製し、大甕、酒壷、花瓶、及び茶器など、尤も
雅品にして世人はこれを常滑焼として賞美します。
 古に当尾張国より陶器を多く出せることは、延喜式、朝野群載などにも見えて、古く
より朝廷に貢献し、当常滑村は即ち陶器濫觴(始まり)の地です(尾張名所図会 前編
知多郡)。
 
犬山焼
 犬山焼は尾張丹羽郡今井村の、妙感寺の北方の丸山と云う処に窯があり、赤画青絵な
どの皿、鉢、盃、茶碗、壷類などいろいろあります。近年の新製と云う(尾張名物図会
後編録丹羽郡)。
 犬山焼の濫觴は、宝暦ホウレキ年中に丹羽郡今井村において飴色や黒色の陶器を焼き出し、
犬山焼と称して「犬山」窯印を押して売ったと云う。
 その後文化七年に島屋宗九郎が犬山城東丸山に窯を築き、御庭焼と呼ぶ陶器を焼いた
と云う(成瀬家取調書)。
 
笹島焼
 笹島焼磁器は廣井の笹島で製し、近来の新製で、楽薬の模様は様々に色どり、美しい
陶器です(尾張名所図会 前編二愛智郡)。
 
品野焼
 品野焼は下品野に窯があり本業の焼物で、瀬戸赤津のようです。火鉢、土瓶などいろ
いろ焼き出すと云う(尾張名所図会 後編四春日井郡)。
 
赤津焼
 赤津焼は元は本業のみで、瓶、半胴、摺鉢などを多く作り出しましたが、瀬戸で染付
を始めたので、ここでも染付を焼き出したと云う(尾張名所図会 後編四春日井郡)。
 
九郎焼
 文化文政の頃に名古屋藩士平沢九郎と云う数奇者があり、仕官の余暇に茶碗、茶入、
香合、花生などを焼き、自ら俗気を脱して一種の雅致があったと云う。その業を子孫に
伝えず、また工人にも伝習しなかったと云う(瓢翁夜話 二)。
 
豊楽焼
 大喜豊助は名古屋の人で、その父高木豊助は自然翁豊楽と号し、陶器の製造を加藤豊
八に就いて学び、終いに一家をなして豊楽と称しました(瓢翁夜話 二)。
 
織部焼
 織部焼には耳附の茶入に様々の異風のものがあり、古田氏物好み焼物です。
 鳴海手のものの茶入れは、古田織部重勝が尾州鳴海において窯を立て、その数六十六
焼かせ、国々へ広めたと云う。その地の名を付けて鳴海と云う。土は薄く浅黄にて見事
な茶入です。世間に類いのない稀な高値です(萬寶全書六)。
  
玄ひん(文+武冠+貝)焼
 玄ひんとは陳氏で既白と号し、書画に優れ、中国の明末の人です。朱舜水と共に乱を
避けて来尾しました。舜水は水戸公で、既白は尾張公へお預かりとなり、尾州公の御客
分であり陶工ではありません。玄ひん手づから茶碗百を焼いて名古屋の本願寺へ奉納し
て、うちの一つは志乃薬、黒画、尾張土のもので、古清水のようであるなどと云い伝わ
る品です。このような手と堀の手に似た品があり、堀の手は高台コウダイを後に付けたもの
です。玄ひんは、黄薬でいびつの高台を心情とした作り振りです。今の玄ひんと云う白
薬藍画の品は、安南(インドシナ半島東部)の上手ものです(陶器考 附録)。
 
△遠江トオトウミ(静岡県)
 志戸呂焼は遠州好み七窯の一つで、島物と瀬戸を写し、薄作りです。呂宋の作振りを
写す物もあります。上作の茶入は丹波のもののようです。土は黄白の薄赤砂利で、釉薬
は黒楽に黄と浅黄の卯の毛、黒色、金気の色、柿色、黒鼠色、萌黄色、黒鼠に黄色の胡
麻薬などです。極古いものは黒鼠に黄色の胡麻薬、砂利土で漉す厚作り故に、古唐津と
云い伝えのある赤土のものもあります(本朝陶器攷證 三)。
 
賎機焼(駿河(静岡県))
 賎機焼は交趾を写し、萌黄薬の白土、賎機の印があります(本朝陶器攷證 三)。
 
△武蔵(東京都・埼玉県など)
今戸焼
 江戸今戸焼は、以前は人形、ほうろく(素焼土鍋)などを焼いており、茶器は文化文
政の頃より焼き出したと云い、土は京都楽焼のものを取り寄せたと云います(本朝陶器
攷證 二)。
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