13a 陶器焼窯考
深草焼
人皇二十二代雄略天皇十七年に、土師連吾笥と云う土器の細工人を、山城国伏見村に
置かれたことが国史に見えます。その時の細工人が現在まで伝わり、伏見海道の土物細
工、西行行脚の姿、或いは狐牛の類等々の人形、器物などを造って家業としました。そ
の由来はこのように久しく、深草の土器師の造るものは、長い間名物として認められて
いるのです(日本山海名物図会 四)。
深草焼
人皇二十二代雄略天皇十七年に、土師連吾笥と云う土器の細工人を、山城国伏見村に
置かれたことが国史に見えます。その時の細工人が現在まで伝わり、伏見海道の土物細
工、西行行脚の姿、或いは狐牛の類等々の人形、器物などを造って家業としました。そ
の由来はこのように久しく、深草の土器師の造るものは、長い間名物として認められて
いるのです(日本山海名物図会 四)。
月ゆへに内へもいらでとにたてば やうのものとや人の見るらん
ひとめみしかはらけ色のきぬかづき我に契や深草の里
(以上、東北院職人歌合 深草)
幡枝焼
北山幡枝土器村の人が、三度七度並びに寒鼻などの器を造りました。この村でこれを
造る者は、新年に烏帽子に蘇芳スホウ(襲カサネ)を著けて禁裏(宮中のこと)清所に献納し
ました(雍州府志 七土産)。
近衛殿御家領の城州愛宕郡幡枝村の御用土器師丸大夫は重役で、禁裏御清所へ調進な
どをしていました。当時、大夫名の者は二十六軒あり、このうち平人はご用を勤めない
ので、土器を市中へ売り歩いていました。
御用土器師の者は、元嵯峨小倉山麓深草の里に居住して、禁裏御清所へ御用土器を調
進していましたが、応仁二年に東幡枝村へ十八軒ほど移転し、文明元年十二月三十日村
々へ通知し、その後元亀年中に岩倉村領のうち、禁裏御料木野芝を拝領しました。そこ
を木野村と呼び居住しました。ここに応仁二年より嘉永五年までおよそ三百八十六年に
なると云う。
大夫名の者は嵯峨野々宮神職で、土器は内職兼業で造り、毎年四月の亥の日の野々宮
神祭には神事を勤めていました。土器の焼き始めの年号は分からないが、御朱印は嵯峨
野々宮社領十五石と云う。土器以外の焼物は造らず、銘々自宅の窯で焼き出していたと
云う(本朝陶器攷證 二)。
八重ざくら名におふ京のものなれば 花がたにやくなら火鉢かな
風呂火鉢瓦灯ぬり桶みづこぼし よきあきなひとならの土かな(三十二番職人歌合)
△大和(奈良県)
赤膚焼
和州赤膚焼は天正慶長の頃、大和大納言秀長卿の思し召しにより尾州常滑村より與九
郎と云う者を呼び寄せ、窯を造り焼き始めました。その後京都より治兵衛と云う焼物師
がきて焼きました。それより近来、松平甲斐守様の御隠居尭山翁が内々にお世話したと
云う。窯元は添下郡五條村と云うところで、土も五條山より採取したと云う以外は不詳
(本朝陶器攷證 一)。
赤膚焼きは大和国添下郡五條村に産します。正保年間には同郡郡山で造りました。当
時京都の陶工野々村仁清が来て窯を開き、焼き方を土地の者に伝えました。故にその製
品は仁清焼に類しています。既に廃窯していたが、宝暦十一年に郡山藩主柳澤甲斐守の
命により、今の五條村に開窯し、多くは酒器を製していました。土質は白く、これに灰
白釉を掛け、おおむね松本萩の製品に似ていました。裏面に赤膚山、また赤膚の印を押
しています(府県陶器沿革陶工伝統誌)。
△和泉(大阪府)
行基焼
行基焼は和泉国、日本陶器の初と云われますが、調べによると行基の陶器を焼いたこ
とは正史に伝えていないと云う(陶器楽草)。
古行基は河内国埴田陶器で、初め磁器を作り、遺骨を盛ったり、経巻を納めたりして
土中に収めていました。今に残っているものは行基壷と呼んだり行基焼と云っています。
茶人はこれらに水を盛ったり、花を挿したり、壁に懸けたり、また席上に飾って観まし
た(雍州府志 七土産)。
湊焼
泉州堺の湊焼については、同州大鳥郡湊村の土器師火鉢屋吉右衛門が、数代湊焼の陶
器を作っていました。焼き始めは慶安年中の頃、京洛北御室村辺より移転しして始めた
と云いますが不詳。当時吉右衛門は瀬戸物商人で、自宅に窯を造り、窯は一つだけです。
品名は土瓶、その他の雑器類、また盃、湯呑、重物で何でも注文を受けていました。色
は玉子色、空色などと云う(本朝陶器攷證 二)。
難波焼
難波焼は津国大坂高津にて、延宝の頃より初めて焼かれました。茶碗、水指、水こぼ
し、花生、卓香炉、薬鍋、土釜、その他いろいろの物を焼いていました。土色は鼠、浅
黄、釉薬の色は浅黄、薬くろき、青色、薄い染付の絵など。花生は牡丹、葡萄などいろ
いろと云う。黒谷山の土を用いて難波で焼いたと云います(萬寶全書 八)。
高原焼
高原焼は摂津大坂小橋ヲバセにて、難波焼より古いと云う。難波焼と同じようにいろい
ろ焼いていました。茶碗などには、高麗ものとよく似ているものがあると云う(萬寶全
書 七)。
菅原焼
菅原焼土器は天満天神にて、雑器の類を好みのままに造り、醤色アメイロの土器と云う。
菅神霊廟の地において造ったので菅原焼と呼びました(摂陽群談 十六名物土産)。
三田サンダ焼
摂州の三田焼で、神田宗兵衛が肥前国より太一郎定二郎と云う職人を招いて焼き始め
ました。窯所は町続きの三輪村、青磁の釉薬は砥谷村の紫石から得、窯の初めは寛政十
一年未十二月と云います(本朝陶器攷證 一)。
古曽部焼
摂津の古曽部窯の創設年代は未詳。土地の話では能因法師がこの地に来て、瓷器ジキを
造ったのが始めと云う。寛政三年に五十嵐信平が陶窯を再興して種々の器物を焼いたの
が、古曽部窯の名が世に聞こえた初めと云います(薄園随筆)。
△伊賀(三重県)
伊賀焼
伊賀焼の興りは未詳ですが、往古より三度程中絶したと伝えます。寛永十二亥年に京
都陶工孫兵衛伝蔵を招いて、君命により水指百三十三焼いて秘蔵にしたと云う(本朝陶
器攷證 二)。
万古焼
伊勢の万古焼は桑名の豪家の寸方斎と云い、原叟宗佐の門人で陶工ではないと云う。
初め楽を焼き、後西洋や交趾を写し、茶碗、香合、鉢皿類などいろいろあります(陶器
考 附録)。
安東焼
伊勢国の安東焼は、服部十左衛門が下絵などを染筆にて焼き初めたと云い、焼物師は
良介、時代は安永天明年中、窯は織部山、土もこの山のものと云います(本朝陶器攷證
一)。
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