13 陶器焼窯考
 
                       参考:吉川弘文館発行「古事類苑」
 
                    本稿は吉川弘文館発行「古事類苑(産業部
                   一[陶工])」を参考にさせていただきまし
                   た。
                    「陶工は陶器を造る工人を謂ふなり。陶器
                   には、土焼、石焼、瓷器ジキ(磁器)等あり。
                   之を造るの術は既に神代に起れり。されど当
                   時の物は、極めて粗造(米扁+造)にして、
                   土焼の種類に属せしが、後外国の陶法漸く伝
                   はるに及び、次第に其術を改良せり。大宝の
                   制、朝廷に筥陶司ありて、官の陶器並に筥を
                   作らしむ。鎌倉足利の代より徳川氏の初に亘
                   るの間に於ては、彼我工人の往来少からず。
                   諸国斉しく此業の発達を観るに至れり。就中
                   瀬戸焼、九谷焼、伊万里焼等尤も名ありて、
                   特に瀬戸の名称は、遂に陶器の総称と為るに
                   至れり」旨のことを記しています。
                    前掲「焼窯いろいろ」も併せてご覧下さい。
                                    SYSOP
 
△山城(京都府)
京焼
 いま普通に京焼と云われますが、何窯なのでしょうか。押小路目利の方に聞き合わせ
たところ、以前いろいろと諸国の焼物を写し、又は粟田などで焼いた品々を、一体に京
焼と云うとのこと。それゆえ膳所ゼゼ丹波、或いは高取肥後などもそのように云うとの
こと。仁清ニンセイ乾山ケンザンみぞろ、清水、粟田などは、おのおのの焼風があって混ざらな
いと云います。しかしこのことは大凡のことで、その筋々の手曲せ、土薬を見分けなけ
れば、ただ一辺倒に京焼とのみ云うことは、痒いところに手の届かない心地がします。
既に京に櫻井、露山などと云う焼物がありますが、知る人は稀です。そのほか諸国にも、
新古の焼物は沢山あるようですが、昔より用いてきたのはほとんど以上のとおりです。
櫻井は櫻井三位殿の領地で西山崎、露山は西御門跡領内、洛東山科郷の音羽村に窯があ
り、九条殿下の御筆になる露山と云う額があるとのこと。これらは売り物にしないので、
世に知る人も稀なのです(本朝陶器攷證コウショウ 六)。
 
楽焼
 豊臣秀吉公が聚楽城にいたとき、千利休に命じて朝鮮人の陶器造りの者を招いて、茶
碗を焼かせました。利休はその陶工に朝鮮の「朝」の字を取って朝次郎と名付けました。
その茶碗は赤色黒色の二色あり、その底に「楽」字の突起があり、これは聚楽の楽字を
採ったものです。これによって「楽焼」と号し、また楽茶碗と称しました。その子孫は
聚楽の辺に住んでこれを焼いたが、利休の時の作品には及ばなかったと云います(雍州
府志 七土産)。
 来朝した朝鮮陶工の名は飴也といい、楽焼家の元祖で、彼の作った焼物を尼焼と云い
ます。初代長次郎は飴也の子で、聚楽の土で茶器を造ったので、楽焼と云います(楽家
陶彙)。
 長次郎には拝領印はありませんでした。ただ京焼と云いました。二代目のとき聚楽の
瓦を申し付けられたとき、楽の印判を豊公より拝領して以来、聚楽焼と云いました。の
んこうには拝領印はありませんでした(本朝陶器攷證 五)。
 
御室焼
 御室焼とは、往古のこと故よく分からない。当時は田舎で、清水焼に箔を置いた茶碗
を御室焼として用いたとの風説もあります。遠州(小堀政一)などに御室茶碗の趣のあ
るものもありますが、御室焼というのは土器焼なのか、窯元はどこかは詳しくは分かり
ません。
 御室山の続きの成瀬村辺り一帯から行基焼と云う器がときどき掘り出されますが、こ
の行基焼が御室焼かも知れません。神亀三丙寅年、行基は山崎に橋を造るとあります。
行基菩薩は土器の始なのでしょうか。御室門前辺りに往古の土器職人がいたが、世用の
俗品ばかりを焼き出したため、安永の頃より焼物師が次々に廃業し、当時は一軒も無く
なりました。このためこれ以上のことは分かりません。
 仁清は元丹波国野々村出身で姓名は分かりません。寛文の頃でしょうか、山城国愛宕
郡御菩薩池村に住んで、茶器の類を好み、専ら茶器を焼き出し、名印御菩薩又はみぞろ
などがあります。御室家来山崎近江介住宅裏に、仁清の窯跡があり、この辺りを掘って
みると、仁清の銘のある壊れた茶碗が多く出ると云います。仁清は御室裏へも仕えまし
たので、仁の字を賜り、そのとき仁清と改め、四五代ばかり続き、専ら茶器を焼き、銘
印は三種もありました。器箱に、丹波国住人野々村播磨大掾藤原正廣入道仁清と認めら
れるものがあります。北野天満宮奉納の焼物にも、この銘があると云いますが、不詳(
本朝陶器攷證 二)。
 
清水焼
 城州愛宕郡清閑寺村領字丸山(凡山?)と云うところは、後代茶碗坂とも云います。初
代総左衛門は寛永十八巳年の頃より、そこに住んで、焼物を造っていました。その後九
代続きましたが、とうとう衰微し、所持していた窯を大仏境内鐘鋳町丸屋佐兵衛に譲り
ました。窯は同佐兵衛居宅に移し、その後弘化四未年頃同町丸屋卯兵衛が譲り受けまし
た。この窯は清水五条焼物窯の元祖につき、窯元と云います(本朝陶器攷證 二)。
 
粟田焼
 本窯は清水五条粟田焼と云い、城州清水、或いは大仏、また泉湧寺山より出る土で器
を造り、製法は南京石土と同じ、窯は石焼窯のようです。小物を造り、これを御室窯と
も云います(陶器楽草)。
 元和寛永の頃、九右衛門と云う者が専ら西洋風の焼物を焼き、これを粟田焼の初と云
います。その頃の土を採った道を今に九右衛門の図子(横道)と云います。錦光山、宝
山、帯山、東山などと云うのは、窯の名と云い、焼人の名ではないと云います(陶器考
附録)。
 
乾山焼
 尾形深省(尾形光琳の弟にして、詩文和歌集を著す)は、嵯峨鳴滝辺の土をもって焼
き始めたので、「鳴滝山は王城の乾にあたれり」として乾山と名乗りました(本朝世事
談綺 二器用)。
 山城、乾山、尾形氏、名は眞省、尚古と号します。陶器を製することは世の知るとこ
ろ。西洋の風を採れり、極彩色ものゝ内に、あまかわ出来の火入れ、蓋置、鉢皿類に乾
山を焼き付けしたものが多い(陶器考 附録)。
 
朝日焼・田原焼
 山城国宇治朝日田原陶器は、もと多羅尾久右衛門様御代官の管轄で城州宇治郡宇治郷、
恵心院門前の東北の字茶碗山と云うところの産で、この付近は土器の破片が出土すると
云います。離宮社後の山を朝日山と云うので、朝日山の焼銘を用いたと云います。
 宇治田原焼については、郷内を調べましたが未詳です(本朝陶器攷證 二)。
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