1101b 日本陶磁の歩み2
〈磁器の起源とその発展〉
磁器と陶器の違いは,ともに素地は長石・硅石・礬土アルミナから成っていますが,磁器
はほぼ等分であるのに対し,陶器は礬土,換言しますと土分が多く,1:1:3の割合
です。このため磁器は素地が磁化して半透性を帯びますが,陶器は失透性です。また焼
き上がってから冷めるまでの収縮率が違い,このため磁器には普通貫入はありませんが,
陶器にはあります。なお一般的に磁器は純白に近いですが,陶器は素地に鉄分を含みま
すので,還元しますと青味を帯び,酸化しますと茶褐色になります。
わが国で初めて磁器が作られましたのは江戸の初めの元和2年(1616)とされており,
これは中国に比べ千年以上,安南・朝鮮に数百年遅れています。
△李参平と磁器の創始
わが国で初めて磁器を作ったのは,文禄3年に渡来した帰化鮮人の李参平です。始め
唐津風の雑器を焼いていましたが,何とか磁器を作りたいと佐賀藩内を隈無く踏査し,
有田川の上流の泉山センザンに白磁鉱を発見,元和2年帰化鮮人18人を率いて有田に移り,
この年白磁・染付の焼成に成功しました。その窯址で発見されます陶片は李朝風の染付
が多く,全て日用雑器で,素朴な親しみが持てるものです。
△柿右衛門
酒井田柿右衛門はわが国色絵磁器の始祖とされています。19歳のとき有田に移り,初
め唐津風の陶器を焼き,次いで白磁・染付・青磁などを作りましたが,伊万里の豪商の
依頼で赤絵を試みて失敗しました。その後研究を重ね,「ごす権兵衛」の助力を得て,
寛永の末若しくは正保の初め頃,赤絵に成功しました。李参平に遅れること30年足らず
でした。
柿右衛門代々の作品についての概略は,初代は初め泉山の並石を用い,柞灰釉を極薄
く掛け,これに中国風の画を描いた壷などを作っていました。初期は色が冴えず,黒ず
んでいますが,晩年泉山の陶石に岩谷川内の石を混ぜ,乳白色をした濁手ニゴシデと呼ん
でいます純白の素地を創案し,これに温雅な冴えた上絵具で,簡素な草花文を描いた独
特な色絵磁器を作り出しました。最盛期は初代の晩年から五代迄,即ち江戸の正保から
元禄頃迄です。また六代の後見役渋右衛門は異色で,俗にいう古伊万里は渋右衛門の作
風の転化したものと言われています。
柿右衛門の色絵磁器は正保年間に既にヨーロッパに輸出され,大きな影響を与えまし
た。
△古伊万里
柿右衛門が色絵磁器を始めますと間もなく,その秘法は漏れて有田一円の窯々でも色
絵磁器を作るようになりました。有田焼は主として伊万里の港から各地に送られ,また
肥前一帯の窯元たちは伊万里の商人の支配下にありましたので,これを俗に伊万里焼と
呼んでいます。
肥前の色絵磁器は,柿右衛門・古伊万里・色鍋島の三つに大別できます。古伊万里の
最盛期は元禄から享保にかけてですが,庶民文化を背景として生まれたものだけに,町
人らしい華やかさ,情熱,混濁といったものが感じられ,また成金趣味的に低俗さがあ
ります。
△鍋島焼
鍋島藩は二代勝茂の寛永5年,藩窯を有田の岩谷川内に築きました。
鍋島藩は最良の原料を用い,整形・焼成にも念を入れ,官窯だけに品位と格調の正し
さに努め,わが国のやきものでは最も端正でアカデミックな,精巧な磁器が作られまし
た。作品には染付・青磁・色絵磁器などがありますが,色絵磁器が特に優れ,これを色
鍋島と呼んでいます。
△古九谷
江戸の初期,石川県の九谷で作られた色絵磁器を古九谷と呼びます。古九谷には皿・
鉢・徳利・瓶・香炉などいろいろありますが,代表的な名作は大皿にみられます。素地
はやや灰色を帯びてざらっとした白磁が特徴的で,大胆な構図,雄勁な筆致,渋い深い
調子の上絵付が魅力です。その装飾法には絵画風と幾何学的模様と二つがあります。
なお,古九谷によく似た色絵磁器で姫谷焼というのがありますが,その起源・沿革は
はっきりしません。
〈江戸時代の窯々〉
鎌倉・室町時代には,日本六古窯を除きますと幾らも窯がありませんでした。桃山時
代,美濃に沢山の窯が興り,また文禄慶長の役のあと,九州にも多くの窯が興りました
が,それでも,桃山時代にありました窯数は200そこそこでしょう。
日本のやきものは,江戸時代になってにわかに盛んになりました。そしてその一中心
地になったのは京都です。
△京焼
京焼が盛んになり,各地に大きな影響を与えるようになりましたのは,名工仁清が現
れてからです。
仁清が御室に窯を拓きましたのは正保4年(1647)で,仁清が色絵を大成し,更に金
銀彩を施した華やかな,宮廷趣味のやきものを始めてから京焼は作風が一変しました。
仁清の色絵の流れを汲むものは古清水ですが,この他いろいろの窯が京都一円に興き
ました。
また仁清とともに京焼に光彩を添えるのは乾山です(筆者は,日本の陶磁史において,
乾山のような大芸術家は空前絶後であると確信しています)。
乾山が現れまして,京焼にはその影響を受けたものもありますが,あまりに個性的な
乾山よりは,通俗的な仁清の影響を受けたものの方が多いです。清水・粟田は年ととも
に窯数も多くなり,京焼の二つの中心地となりました。
△東日本と西日本の窯々
東日本の窯々には瀬戸・美濃から分かれたものが多く,一方西日本の窯には肥前・京
都の流れを汲むものが多いです。その一々は略しますが,江戸時代,西日本に興った窯
は,東日本に比べて窯数が遥かに多いです。殊に江戸中期以前,東日本にありました磁
器の窯は,寛文頃興りました宮城県の切込キリコウベ焼だけです。また赤絵の窯も東日本は
文化文政迄は江戸万古だけでありましたが,西日本には少なくも40〜50はありました。
西日本は意匠・文様も優れ,整形にも意を用い,東日本の保守的で単調なのに比べ,
進取的で多岐的です。また西日本は素地にも恵まれ,変化に富んでいますが,桃山時代
の志野・黄瀬戸・織部の土を除いては,東日本には魅力のある土が少ないです。
〈幕末諸窯の繁栄〉
江戸時代,わが国の各地に沢山の窯が興ったと言いましても,小規模の家内工業が多
かったのです。各地の窯々の規模が大きくなり,窯数も急激に増大し,国民一般が日常
陶磁器を使うようになりましたのは,文化文政頃からです。
瀬戸には「丸窯」といって世界で一番内容積の大きい窯がありますし,有田にも「百
間窯」があります。これは内容積が大きいほど燃料の単価が安く,火斑ヒムラが少なく,大
きな分厚い器でも疵が少なく焼けるからです。また有田・瀬戸・美濃のように大きな製
陶地に,地区による製品の種別が生じ,生産能率の増大を図りましたのも,文化文政頃
からです。
とにかく,幕末から明治の初めにかけてわが国各地に沢山の窯が興り,主要な製陶地
の生産額も激増しました。また優れた陶芸家が各地に現れ,わが国陶磁史で最も華やか
だった時代だとも言えます。
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