1101a 日本陶磁の歩み2
 
 △丹波
 終始雑器として焼いた窯で,茶器などもありますが,日用の甕や壷や徳利に美しいも
のが多いです。この時代の窯は山麓の立杭に移り,半地上式の登窯に改まりました。
 △備前
 茶器として最初に選ばれました日本のやきものは信楽と備前で,武野紹鴎の所持して
いました備前筒が,備前焼の茶器の最初です。資料でみますと,元亀・天正・文禄・慶
長頃,花入・水指・建水・茶碗などが盛んに茶会で使われていたことが分かります。
 △楽焼
 楽焼は桃山時代に新たに作られた,軟らかく暖かい日本的特質を持つやきものです。
楽焼は鉛を媒熔剤とした低火度のやきもので,黒楽はざっと1000度,赤楽は800〜900度
位です。
 初代長次郎・宋慶・二代長次郎・宋味・常慶の作った楽焼を,初楽と呼んでいますが,
何れもしっとりとした,あまり光沢のない釉薬が掛かり,雅致の深い渋い茶碗です。
 また道入の楽は光沢があり,作りが軽妙で,高台の作りなど実に鮮やかであり,作風
や印,幕釉の掛け方にも特徴があります。
 楽代々以外の窯で作られました楽焼を脇楽と呼んでいます。ここで有名なのは光悦で
す。光悦の茶碗は,第一にどれもこんもりとした,全体として円い感じのもの,第二に
腰が一文字にきりりと立ち,胴は垂直に近く,断裁的な独特の形,第三に土がざらっと
して赤黒く,胴は切立ちに近いが腰に円味があり,口の僅かに端反り気味になった,茶
の飲みやすい茶碗の,この三つの型に類別できます。
 また尾形乾山・仁阿弥道八・啄元弥介なども楽の名手として知られ,地方にも方々に
楽焼の窯があります。
 
〈文禄慶長の役と九州諸窯の台頭〉
 文禄慶長の役(1592〜98)で,わが国は朝鮮征伐を目論み,結局は失敗に帰し,朝鮮
を撤退するとき可成り多くの朝鮮人を連れ帰った中に,相当数の陶工がいました。そし
てこの陶工たちが九州の諸窯を興しました。
 唐津焼のように,帰化した朝鮮人たちが生活のために自発的に興した窯もありますが,
高取・上野・薩摩・萩などは,黒田長政,細川忠興,島津義弘,毛利輝元などの諸将が,
一つには自国の産業開発のため,また一つには楽しみのために築かせています。
 わが国近世の陶業の源流は,これら文禄慶長の役後に興った,これら九州諸窯なので
す。
 △唐津焼
 唐津に近い岸嶽山麓の窯を中心として肥前一帯の百余の窯で作られたものを,唐津焼
と呼びます。慶長元和の頃,日本に帰化した朝鮮人の興した窯に拠って,最も盛んに作
られました。しかし,元和2年(1616)李参平が白磁を創始し,正保の初め柿衛門が赤
絵を始めますと,その影響で肥前の窯々は陶器から磁器に転じ,唐津風の陶器を焼いて
いた窯々は概ね廃窯に帰しました。
 唐津の古窯址から出土します陶片は,甕・壷・摺鉢などの日用雑器が多いです。素地
は概してざらっとした砂目の堅い重い土で,またやや鉄分を含み,焼き上がると暗い鼠
色になるものが多いです。釉薬は土灰釉といって,長石に雑木の灰を混ぜたものが最も
多いです。
 唐津は朝鮮人が興した窯だけに,李朝によく似た,素朴重厚な作行のものが多いです。
初期は無地が多く,慶長元和頃には鉄絵文様のある絵唐津が可成り作られています。
 釉薬・文様から,無地唐津・斑マダラ唐津・絵唐津・彫唐津・朝鮮唐津・青唐津・黄唐
津・黒唐津のほか,瀬戸唐津・献上唐津・三島唐津・刷毛目唐津などに分けられます。
 窯は朝鮮系の割竹式と呼ばれますもので,窯の1/3程が地下に沈み,天井は地上に
築いた細長い傾斜したもので,焼室が幾つかに分かれた新しい様式の窯です。またこの
頃,蹴轆轤ケロクロが移入されたようです。
 △高取焼
 慶長5年(1600),黒田長政が福岡へ国替えになってから,帰化鮮人の八山(日本名
高取八蔵)に命じて,鷹取山の西麓の直方市永満寺宅間窯床に窯を築かせたのがその起
源とされています。
 高取焼は大別して,古高取時代,遠州高取時代,小石原高取時代,福岡皿山時代,明
治以降の五つの時代に分けられます。
 古高取は初代八山の作った古格のある高取焼で,斑唐津によく似た失透性の白釉の掛
かったものが多いです。遠州高取時代は,勘気を解かれた八山が,小堀遠州の指導で瀟
洒な作風に転じてからのもので,古高取のような素朴重厚な趣きはありませんが,洗練
された趣きがあり,また光沢の強い黒飴色の釉薬もこの時代に始まりました。小石原時
代になりますと鼓窯の茶入など,作行が概して軽妙で薄作りです。その後福岡城外に皿
山が設けられ,東皿山は藩御用の品,西皿山は民用品を作りました。福岡の皿山と小石
原は今猶高取焼の伝統を守って窯は続いています。
 △上野焼
 上野アガノ焼の開祖尊楷(日本名上野喜蔵)は慶長7年,細川忠興が小倉へ移封になっ
たとき,招かれて小倉へ移り,城下の菜園場村に窯を築きましたが,その後窯を上野に
移しました。作風は素朴重厚で,釉薬は主として土灰釉・藁灰釉・鉄釉を使っています。
上野焼の一つの特徴は,茶碗でも鉢でも向付・皿でも,高台が比較的高く,俗にバチ高
台と呼ぶ外の開いた高台のものが多いです。また上野焼の特徴とされる銅呈色による緑
色の釉薬の掛かったものは全て皿山本窯のもので,窯印とされる「左巴に甫」「右巴に
高」の印のあるものは,幕末天保頃からのもので,古い上野焼には印がありません。
 △八代焼
 八代ヤツシロ焼は高田焼若しくは平山焼とも呼び,細川藩の御用窯で,寛永9年細川三斎
が小倉から熊本へ移ったとき,上野喜蔵も肥後に移り,八代市奈良木に築窯したのがそ
の起源で,最初に築窯したところを壷焼台と呼んでいます。素地はざんぐりとした赤土
で,釉薬は土灰色のほか茶褐色・青黒色・飴色暗黒色・海鼠色などの釉薬を掛けたもの
があり,器物の種類は茶碗が多いです。作風は豪放で迫力があります。また八代焼の特
徴とされる象嵌文様のあるやきものは,三,四代によくなされました。
 △薩摩焼
 薩摩・大隅両国でつくられたもので,矢張り渡来鮮人が興したものですが,特に有名
なのは帖佐焼の金海・芳仲と,苗代川焼の朴平意です。
 薩摩焼にはいろいろの作風がありますが,古帖佐と呼ばれます,金海が慶長年間に御
庭焼で作った茶入・茶碗などが尊ばれています。渋い調子の柿釉・黒釉・藁灰釉を掛け
分けした調子が面白く,器形・作行は瀬戸・美濃の影響がみられます。独特の渋い釉調
とぶっきらぼうな作風に特徴がありますが,堅野に移ってからは作風は軽妙繊細になり
ました。薩摩焼を二大別しますと,黒物と呼んでいます赤土に黒い釉薬の掛かったもの
と,白物と呼ぶ白土に透明性の細かい貫入のある釉薬の掛かったものとになります。
 △萩焼
 矢張り帰化鮮人の興した窯で,文禄2年(1593)毛利輝元が帰国の際,李勺光・李敬
の兄弟を連れて帰り,萩の松本に窯を築かせました。萩焼には松本萩と深川萩がありま
す。
 松本萩は萩市松本に李敬が拓いた窯で,坂窯は代々藩の御抱窯として幕末まで続きま
した。また寛文年間,三輪休雪も窯を拓き,三輪窯も江戸時代には御用窯として保護を
受けました。深川焼は李勺光の門弟たちが寛文年間に興した窯です。萩焼の系統は頗る
複雑多岐で,古窯址の調査も未だ十分に行われていませんので,不明の点が多いです。
 ただ,土のざんぐりした軽い柔らかい作風は,「一楽,二萩,三唐津」と茶人に親し
まれています。
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