1101 日本陶磁の歩み2
日本陶磁の歩み
参考:名著出版発行「別冊歴史手帖日本やきもの史」
小山冨士夫氏「日本陶磁のあゆみ」より
〈桃山の茶陶〉
陶磁史でいう桃山時代は,信長が政権を執っていた安土時代から,寛永の鎖国までの
元和・寛永年間をも含めた前後50年を指します。そしてこの時代,わが国の陶磁史で,
最も日本的な特質が現れ,自由で変化に富み,生き生きとしたやきものが作られた黄金
時代です。
この時代の大きな特徴の一つは茶の湯の流行で,盛んに茶碗・水差・花生・香合など
の茶器が作られました。
△美濃(志野・黄瀬戸・瀬戸黒・織部)
美濃の豪族の土岐氏,次いで信長・秀吉が厚く保護しましたので,美濃は桃山時代の
わが国の製陶の中心地となりました。そして美濃焼は,志野・黄瀬戸・瀬戸黒・織部な
ど,独特のやきものを作りました。
@志野:白い淡雪のような長石釉がたっぷりと掛かり,温かい,柔らかい感じの日本
らしいやきものです。日本で最初に作られました白いやきものであり,また鉄絵具で文
様を描いた最も古いやきものです。俗に火色(緋色)と呼んでいるほんのりと赤く焦げ
たところのあるものが特に珍重されます。中国にも朝鮮にもない日本独特のものです。
志野の語源は「白」或いは「篠」から転じたという説もありますが,室町末の茶人で
志野流香道の祖でありました志野宗信が創めたのでこの名があるというのが一般的です。
志野が何処で何時初めて作られたかは未だはっきりしていませんが,今日賞翫されてい
ます志野の名作の多くは美濃で作られたもので,なかんずく天正文禄頃のものが優れて
います。
志野でも,大萱・大平などで天正文禄頃に作られたものは,半地上式の穴窯で焼いた
もので,釉調がしっとりとし火色ですが,元屋敷・郷之木・水上などで慶長元和頃に作
られましたものは,登窯で焼いたもので,釉面がぬめりとし,火色のあるものは少ない
というようにそれぞれ趣きが違います。志野は,白天目・無地志野・絵志野・鼠志野・
赤志野・紅志野・ねりこみ志野に分けて区別しています。
白天目は志野では一番古い手で長石釉です。これより時代が下りますと胴に段があり,
何れも建盞風の天目で,志野釉が掛かり白無地なのが特徴です。
無地志野は,白い土に白い長石釉が厚く掛かり,鉄絵の文様や彫文様の無いものをい
います。
絵志野は,俗に鬼板と呼ぶ天然の酸化鉄をよく摺って絵具にし,素地に簡単な文様を
描き,その上から厚い長石釉を掛けて焼いたものです。志野の名作とされていますのは
殆ど絵志野です。
鼠志野は白い素地に鉄分の多い泥をすっぽりと化粧し,これを掻落して文様を描き,
その上から厚い志野釉を掛けたもので,還元焔で焼成しますと厚い志野釉を通して鼠色
に見えますのでこの名があります。鼠志野には彫文様がない無地のものもありますが,
一見白象嵌のように見える赤土の層を掻落して,彫文様を加えてあるものの方が多いで
す。
赤志野は鼠志野と同じように,素地に鉄分の多い土を化粧し,その上から志野釉を掛
けたもので,釉薬が薄く,全面赤く焦げています。また赤土の化粧のないのもあります。
紅志野は俗に「赤ラク」と呼んでいます。赤志野より鉄分の少ない泥を化粧したもの
で,この上に更に鬼板で文様を描いたものもあります。
ねりこみ志野,或いは志野の練上げ手と呼んでいますのは,白土と赤土を練り合わせ
たもので,鉄絵具で文様を描いたのもあります。他に志野には「タンパン」と呼ぶ銅呈
色による緑色を散らした珍しいものもあります。
志野で最も優れたものが作られましたのは大萱ですが,ここで志野を作らなくなった
のは,肥前で磁器を始め,わが国製陶の重心が美濃から肥前に移った江戸の初期です。
江戸になって美濃で作っていましたのは,主として俗に古瀬戸と呼んでいます黒飴色の
釉薬の掛かった雑器と,俗に御深井オフケという透明性のうっすらと青味を帯び,細かい貫
入のある釉薬の掛かったやきもので,志野は幕末に春岱・九郎たちが瀬戸で再興するま
で長く美濃でも瀬戸でも焼かなかったようです。
志野の素地は「モグリ土」と呼ばれるざんぐりとした砂の多い土で,窯は「大窯」と
呼ばれ,半地上式という火の無駄な,焚木の沢山要る窯です。こういう窯だからこそ,
しっとりとした深い味わいのある独特な志野や黄瀬戸ができたのでしょう。
A黄瀬戸:室町時代から朽葉色の古瀬戸の流れを汲むやきもので,志野のように桃山
時代に創始した釉薬ではありません。ただ原料・窯・焚き方の違いで独特のものが,美
濃各地で作られています。この時代の美濃の黄瀬戸は,「菊皿手」若しくは「ぐいのみ
手」と呼ぶ,よく焼けて光沢の強いものと,「あぶらげ手」若しくは「あやめ手」と呼
ぶ,じわりとした肌のものがあり,古来茶人は「あぶらげ手」を尊びました。江戸時代
になりますと黄瀬戸は,瀬戸でも作られました。
B瀬戸黒:天正頃初めて作りましたので,一名「天正黒」とも呼び,また焚き上がる
真赤なうちに窯から引き出しますので「引出黒」とも呼んでいます。瀬戸黒には鋏で挟
んだ痕が必ずあり,一つの景色となっており,灰白色の素地に漆黒の釉薬の掛かった,
強い形のものが多いです。
C織部:志野とともに桃山時代を代表するやきもので,慶長元和頃に優れたものが作
られています。この名称は,戦国の武将としても知られました,利休の高弟の古田織部
正重然の好みで作られ,織部の指導が大きな影響を与えたことからです。織部は自由奔
放で斬新警抜で特に作風に変化があり,生気の溢れたもので,華やかな慶長の文化をよ
く反映しています。当時ヒョウゲたるものとして興味を凭モたれましたが,今日の前衛的
な作風と通ずるものがあり,今日の目からも,清新さを感じさせるものがいろいろあり
ます。
織部の器物の種類は茶器が多く,また懐石用の食器も多いです。文様には桃山時代の
障壁画や屏風と相通ずるものがあり,また当時の服飾・蒔絵・金工とも相通ずるものが
ありますが,何処かエキゾチックな,異国趣味のあるのがその特徴です。窯は肥前系の
登窯で,景延が元屋敷に初めて新しい様式の登窯を築き,その影響で美濃一帯は慶長か
ら元和にかけ,穴窯から登窯に改まったといわれています。
なお織部は,青織部・総織部・鳴海織部・赤織部・織部黒(黒織部)・絵織部・鼠織
部のほか,この頃では志野織部・伊賀織部・唐津織部などに分けられています。
△瀬戸
桃山時代には,瀬戸・赤津・品野一帯に沢山の窯がありまして,主として古瀬と呼ぶ,
茶褐色の釉薬の掛かった雑器が多いですが,茶入・水指・茶壷なども沢山の遺品があり
ます。この時代の瀬戸は伝統を守って古典的であり,織部の影響はなく,利休好みの落
ち着いた渋いものが多いです。
△伊賀・信楽
桃山時代の茶陶のうち,特に生彩のありますのは伊賀の花生と水指です。伊賀と信楽
は峠一つで接し,元々区別のつかないところですが,土が伊賀はねっとりとして細かく,
信楽はざんぐりとして荒い長石粒を咬んでいます。また信楽には鎌倉・室町時代のもの
がありますが,伊賀には室町以前のものがあるかどうかははっきりせず,慶長になって
かららしいです。藤壷高虎,その子高次の時に焼いたものを俗に「藤壷伊賀」と呼び,
これを焼いた丸柱窯は,寛永15年頃中絶したと伝えられています。
伊賀は,織部風のヒョウゲた形をし,器形・作風に桃山時代らしい豪快さと共に,激
しい強いところがあります。胴に強い箆目があり,茶褐色に焦げたり,炭化して灰黒色
になったり,焼成中の灰が掛かってビードロ釉が流れたり,いろいろ複雑な景色があり
ます。今日古伊賀と呼ぶものは全て桃山時代のもので俗に筒井伊賀とも呼びますが,古
木の幹や岩を観るような感じがします。伊賀丸柱の登窯は,日本で一番傾斜が急で,4
寸近い勾配があります。このため火がよく立ち,激しい火で焼き上げたことが分かりま
す。
信楽は作風も焼き上がりも,寧ろ枯淡で平凡です。そして主として雑器を量産しまし
た。
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