11 日本陶磁の歩み
 
               日本陶磁の歩み
 
               参考:名著出版発行「別冊歴史手帖日本やきもの史」
                  小山冨士夫氏「日本陶磁のあゆみ」より
〈はじめに〉
 日本のやきものには自然の響きがあります。樹幹を観るような,岩や鉄を観るような
美しい肌をし,人間が作ったというよりも,自然が生んだという感じのものが多いです。
四千年の歴史を持つ中国の陶磁は偉大で,その表現の鮮やかさ,技巧の冴えは,日本の
やきものの及ぶところではありませんが,日本のやきものの良さは,色・形・文様より
は,土の味,肌の美しさにあります。偶然に火の加減で生じた器面の変化,素地の面白
さにその特質があります。
 日本のやきものについては,次の三つのことがいえます。第一に,わが国で最も古い
土器であります縄文土器は,世界でも古い土器の一つです。しかし第二に,日本は島国
であったため,大陸より文化の発展が遅れ,このため陶磁器も中国は勿論,安南,朝鮮
に比べてもずっと遅れて発達しました。第三は,それにも拘わらず明治以降,わが国の
陶磁は急速に発達し,現在では世界で最もやきものの盛んな国といえます。
 わが国の陶磁器は,絶えず中国・朝鮮の陶磁の影響を受けて発達したものですが,必
ずしもそれをそのまま写したものではなく,日本化し,また独自の作風をいろいろと築
きました。見方によっては,桃山以前は中国・朝鮮に比べて技術が遥かに劣っていまし
た。しかし桃山時代のやきものは,茶道というわが国独自の文化が生んだものだけに,
雅致の深い,情緒の溢れた,日本的特質をみせています。江戸時代になってわが国の陶
工達はいろいろの技術を修得しました。白磁や染付,青磁や赤絵も作るようになりまし
た。ようやく多彩に,器形・文様も独自の様式を持つようになりました。明治以降は,
整形・窯様式・燃料など西洋の製陶法を学び,今日では生産する陶磁器の七,八割が洋
食器ですが,とにかく世界一のやきもの王国と評されています。
 
〈古い土器〉
 わが国の古代の土器には,縄文と弥生があります。縄文はわが国で最も古い土器であ
るとともに今日知られています世界最古の土器でもあります。縄文土器を使っていた時
代は,少なくとも6,7千年は続いたと推定され,弥生土器は紀元前三百年前後から,
紀元二,三百年の5〜6百年間のものとされます。
 △縄文土器
 わが国で最も古い土器は縄文土器です。横須賀夏島貝塚から出土した,胴に撚糸を細
い棒に巻いて回転させた文様のある,砲弾形の尖底土器が,カーボン・テストに拠って
今からざっと9千年前のものであることが分かり,これは世界的に最古であるとされま
す。
 縄文土器は,早期・前期・中期・後期・晩期の五つの時代に分けられ,更に出土した
地名に拠ってこれを分類しています。また地域的には日本全国から発見され,百種以上
に類別されています。
 縄文時代の土器や土偶は全て手作りで,まだ轆轤ロクロを使っていません。また窯で焼成
したものではなく,乾かした器を積み重ね,これに焚木を被せて火を着け,あとからあ
とから焚火を投入して焼いたものであり,5,6百度から7,8百度までの低い火度で
焼いたものでしょう。
 △弥生土器
 東京本郷弥生町で発見されたことによってこの名称があります。弥生時代は紀元前約
三百年前後からの5,6百年間で,前期・中期・後期に分けられています。
 弥生前期の最も古い遺蹟は福岡県遠賀川流域に発見され,この時代の弥生土器を,「
遠賀川土器」と呼んでいます。中期には弥生文化が地方に根を張り,地域によって違う
様式を生みました。後期は地域的な違いが薄れ,畿内の影響が広まりました。弥生土器
は縄文土器に比べて概して作りが薄いです。文様は無いものが多く,あっても簡素でさ
っぱりしています。文様技法は箆ヘラ描きの沈線文,二枚貝の腹縁圧痕文,櫛目文,縄文,
凸帯文などです。矢張り手作りで轆轤は使わず,裸火で焼き,焼成温度は縄文よりやや
高く,7,8百度には達しています。
 
〈須恵器〉
 須恵器は,古墳時代から奈良・平安・鎌倉時代(5世紀後半から13世紀)にかけて,
わが国各地で広く作られました。灰色若しくは灰黒色の暗い色をし,古代の土器よりも
火度が高いので素地が堅く,焼き締まっています。また須恵器は轆轤で整形し,丘陵の
斜面に造られた穴窯で焼成しました。これは百済若しくは新羅・任那の陶工が,その技
術をわが国の工人に伝えたもので,わが国での起源は5世紀後半とされています。その
源流は,中国の黒陶及び灰陶です。素地が炭化し,灰色若しくは黒色になった土器は,
中国には龍山文化(前2千年)の時代からありました。
 須恵器はこれを大きく分けて,古墳,奈良,平安・鎌倉の3時代に分けられます。
 古墳時代には須恵器は後期の横穴石室の古墳から主として発見されていますが,多く
は盃ツキと呼ぶ食物を容れる径5寸程の蓋物で,他に高杯・角杯・まり(碗)・はそう(
壷)・盤などいろいろあります。奈良時代によくみますのは壷ですが,唐の影響で胴が
ふっくらと張り,裾の張った低い高台が付いているのが特徴です。平安時代になります
と新しい様式の須恵器が現れてきます。一般的には形が崩れ,作の厚いものが多いです。
この時代に灰釉ハイユウといって,灰の溶液に浸けたり,刷毛で塗って焼いたものがありま
す。自然釉といって焼成中に焚火の灰が掛かり,これが溶けて美しいビードロ色の釉薬
が胴に流れているものは既にありますが,灰釉は人為的に釉薬を掛け,高い火度で焼い
たわが国最古の釉薬です。灰釉を掛けた須恵器は平安の初期,9世紀末か10世紀にはあ
ったらしく,奈良時代に既にあったとする意見もあります。また須恵器は平安時代に終
わったと考えられていますが,鎌倉時代にも僅かながらその流れがあったとみるべきで
しょう。
 窯址は北は秋田・山形から南は四国・九州の果てまで2千基近くこれまで発見されて
いますが,それらは何れも平野に接した丘陵地帯で,低い丘陵の頂近くを削り,穴を掘
って築いています。
 
〈奈良三彩と平安の緑釉〉
 奈良時代に,唐の三彩の影響で作られた奈良三彩は,人為的に釉薬を掛けたわが国で
最も古いやきものとされています。緑・褐・白三彩の低火釉が掛かっていますが,緑・
白二彩のものもあり,緑無地・褐色無地・白無地のものもあります。奈良三彩が何時初
めて作られ,誰が日本にその技術を伝えたかははっきりされていませんが,何れにせよ,
その器形からいっても唐のやきものの影響が強く,直接中国からその技術を学んだもの
でしょう。
 △正倉院三彩
 正倉院の御庫には,総数68点のやきものがあり,そのうち南倉にある57点が正倉院三
彩と呼ばれ,奈良三彩のうち,特に重要なものです。しかし,実際に緑・褐・白の三彩
釉が掛かっているのは,鼓胴1,塔残闕1,まり(碗)1,鉄鉢2の計5点です。何時
作られたかについては未だはっきりしていませんが,資料的に天平勝宝7年(755)以前
のものであることは間違いありません。
 △奈良三彩
 正倉院にある57点のほか,各地の遺蹟から奈良三彩が可成り出土しています。壷は何
れもふっくらと胴の張った,奈良時代独特の形をしたものが10点ほどはっきりしていま
すが,残片は各地から可成り出土しています。
 △平安の緑釉
 平安時代になりますと,三彩も緑白二彩もなくなり,遺品の大部分は緑無地であり,
それも平安中期には絶えたらしいです。
 緑釉は炭酸鉛,即ち俗にいう唐土を媒熔剤にしていますので,8,9百度でも熔けま
す。緑釉陶は須恵器の窯で焼いたといっても須恵器と一緒に焼いたものではなく,恐ら
く素地を須恵器風に高く焼き締めた上に緑釉を掛け,8,9百度の低い火度でもう一度
焼いたものではないでしょうか。なお奈良や平安の緑釉は銅に因る呈色で,緑青即ち酸
化銅を呈色剤として用いたものと思われます。
 奈良三彩,平安の緑釉など,低火度の釉薬は平安の中頃にその技術は絶え,楽焼の起
こる桃山時代まで,低火度の釉薬は使わなかったようです。
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