02b やきものはあなたの手で〈やきものとは〉
16世紀の後半から17世紀の初め,すなわち桃山時代から江戸時代
初期にかけては,大きな変化の生まれた時代であり,日本のやきも
のの開花した時代でもありました。美濃,京都,九州を中心として,
それぞれ特色のあるやきものが出現しました。東に瀬戸黒,黄瀬戸,
志野,織部,中央には楽ラク,京焼きが,さらに西に唐津,上野アガノ,
萩,薩摩サツマなどの出現です。
△瀬戸黒:白色の志野と同じ頃,これと対照的に黒のやきものを美
濃で生み出しました。これは俗に引き出し黒と呼ばれるように,窯
の中で釉が真赤に溶けた器を窯から引き出し,水の中に入れて急冷
することによって発色させたものです。ほとんどが筒形,又は半筒
の単純な作行きの茶碗です。高台が,腰に手がかからないほど低く
削り出されているのが特長の一つです。ほとんどが口辺を箆ヘラで削
り,胴にも太い箆目を入れ,力感を強調しています。極めて豪快な
茶碗です。
△黄瀬戸:明るく,柔らかな感じの薄黄色のやきものです。そのほ
のぼのとした色感は,いかにも日本的な味わいを持ったものです。
花や唐草カラクサなどの模様を線彫りにし,また,俗にタンパンと呼ん
でいる銅による緑色の斑文があるのが特徴です。焼き上がりの美し
さとともに,極めて均整のとれた形も魅力の一つです。狂いのない
ロクロ技術,その手慣れた技巧から生まれた形は,志野や織部など
の歪ヒズみのある器とは対照的な姿です。
△志野:桃山時代の美濃を代表するものです。白い淡雪のような長
石釉がたっぷりと掛かり,暖かい,柔らかい感じの日本独特のやき
ものです。日本で最初につくられた白いやきものでもあり,強さや
豊かさにも溢れています。鉢,皿が多く,茶碗,向付ムコウヅケの類も
あります。砂目を感じさせる,藻草土と呼ばれる土でつくり,長石
釉を厚く掛けますが,釉の下には鉄絵の具で草花や自然の風物を描
いたものがあります。それまでは彫刻的な線描を用いただけで,筆
で絵を描くことは思いもよらないことだったのです。また,これま
での茶碗は,中国に習った天目茶碗だけでしたが,その形式を破っ
た形が生み出されたことも特徴の一つです。俗に火色と呼んでいま
すが,釉の厚薄により,白釉の下からほんのりと紅色が覗き,ある
いは鉄の発色の濃淡を生じます。鼠志野や赤志野と呼ばれているも
のもあり,これは鬼板オニイタと呼ぶ鉄分の多い土や赤土の類をすっぽ
り化粧し,これを掻き落としとして模様を描き,その上から釉を掛
けたものです。還元で焼成しますと,鼠色に発色しますので俗に志
野と呼び,釉が薄く,全面赤く焦げたものを赤志野と呼んでいます。
△織部:志野とともに桃山時代を代表するやきものであり,青緑を
基調とした生命力に富んだ色彩と,現代的とるいえる優れた意匠に
飾られたやきものです。重厚素朴な作行きの瀬戸黒や志野とも違う
趣のもので,織部焼には他の類のない独創的な美しさがあり,日本
のやきものの中でもこれほど自由に変化に富んだ作行きを示したも
のはありません。鉢,皿,碗,向付,手鉢,徳利などの食器を始め,
茶器,燭台,煙管キセル,水滴など種類は極めて多く,その器形や模様
にエキゾチックなものの多いのも特徴です。最も数多く焼かれ,そ
の形の変化に富んだものは向付の類です。これはほとんど土型(粘
土でつくり,焼き締めたもの)に打ち込んでつくられたものです。
この打ち込みづくりには,あらかじめロクロで挽いた丸い形のもの
を,柔らかいうちに型にはめ込み,押して変形したものと,板状の
粘土に被せてつくったものがあります。
△唐津:日本に帰化した朝鮮の陶工の手によって始められたといわ
れますが,その初期のものは,朝鮮李朝の雑器と同一と考えられる
ものが多くあります。粘土は一体に鉄分が多く,また砂目の固い重
い土で,焼き上がりますと黒味がちになります。釉は土灰釉(長石
に雑木の灰を混ぜたもの)が基調になっています。器形と模様のい
ずれも自然のままの素朴さで,親しみを感じます。すべてロクロ仕
上げであり,付け高台というものはなく,どの窯のものも,必ず削
り出し高台です。これまで日本では,ロクロは手で回す手ロクロで
あり,窯は下に潜った穴窯,又は半分だけ地上に出た半地上式の穴
窯でした。ところが,朝鮮の陶工によって足で蹴って回す蹴ロクロ
と,山の傾斜面に階段式に幾室も連ねて築かれた登り窯がもたらさ
れました。この二つは,日本のやきものにとって大きな革命だった
のです。
手ロクロと蹴ロクロの違いは,手で回す場合は,一つの器物をつ
くるのに,何度もロクロ台に開けられた穴に棒を入れて廻さなけれ
ばなりません。蹴ロクロは,下部につけられている回転台を足で蹴
っていれば,ロクロは自然に廻る便利なものだったのです。また,
窯にいたっては大変な相違を生み,薪の量は穴窯の何分の1にしか
当らない経済的な窯だってわけです。やがて,この登り窯が美濃に
伝わり,前述の美しい織部焼が量産されたのです。
17世紀の初めに,日本でも磁器がつくられました。朝鮮の陶工李
参平が,有田の地で磁鉱を発見し,焼成に成功したといわれていま
す。陶器から磁器へと日本のやきものは革命期を迎えました。やが
て有田で生産されたこれらの磁器は,近くの伊万里港から運ばれま
したので,伊万里の名で知られるようになりました。さらに17世紀
の中頃,柿右衛門により色絵磁器が生まれ,呉須ゴスの線描きの上に
色絵を施す,色鍋島の技法も生まれました。また京都の地でも,仁
清ニンセイによって色絵陶器が生まれました。その後間もなく加賀の九
谷,京都の嵯峨,備前の姫谷なども色絵の磁器をつくるようになり,
日本のやきものは多彩な発展をみせました。
九州の地を中心として,次第に発展を続けていた磁器の生産も,
19世紀の初めになりますと,一層広く各地に広がりました。
東日本における陶器の生産の中心地であった瀬戸や美濃において
も,次第に磁器を焼き始めました。そして,やがて磁器の生産は,
東日本一帯を広く覆うようになりました。
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