09 菅原道真公の和歌
                     参考:太宰府天満宮発行「菅家の文華」                       本稿は太宰府天満宮発行「菅家の文華」を                    参考にさせて戴きました。                     道真公の和歌を集めたものには,『菅家御                    詠集』,『菅家御集』があり,宰府謫居中の                    ものは,前者の巻末に『聖廟御集』と名付け                    て纏められていますが,悉くを自作とは断じ                    得ないようです。その他『古今集』,『拾遺                    集』,『新古今集』,『続古今集』,『大鏡                    』などに載せられていますが,これもまた悉                    く自作とすることは難しいようです。                     本稿には確実に自作と思われるものを選び                    採りましたが,然からざるものも二,三ある                    とのことです。                      なお,文末の参考歌もご覧下さい。 SYSOP   1 梅の花 紅ベニの色にも似たるかな 阿呼がほほにつけたくぞある    菅原道真公の幼名は「阿呼アコ」,三男でしたので字アザナを「三サン」と呼びます。  阿呼は利発でした。五才の時,庭前の紅梅を見てこの歌を詠んだと伝えられます。  父是善,母伴氏のご両親は,菅家の学統を継ぐ頭脳があるようだと喜ばれました。し かし,身体はどことなくひ弱いので,何とかして健康児にしたいとご両親は心を砕きま す。『菅家文草』巻十一「吉祥院法華会願文」に,母が臨終に際し「そなたは幼時病弱 でしたので不憫にたえず、観音力におすがりして病を取除いていただいたのですよ」と 言残されたとあります。   2 海ならず ただよふ水の底までも 清き心は月ぞ照らさむ[大鏡・新古今集]    この歌は晩年の作ですが,菅公の若い頃からの心境であり,態度でした。   3 秋風の吹上に立てる白菊は 花かあらぬか浪の寄するか[古今集]    寛平カンピョウの御時,菊合せ(歌合)に,和歌浦近くの吹上浜を模した州浜に白菊を植 える趣向をしましたので,それを,花であろうか,それとも白浪が寄せているのでしょ うか,と詠んだのです。   4 このたびは幣ヌサもとりあへず手向タムケ山 紅葉の錦 神のまにまに[古今集]    昌泰ショウタイ元年十一月二十日,宇多上皇の物見遊山にお供し,同二十三日大和高市郡に ある道真公の山荘にお泊まりになります。  今度の旅は,お供の慌ただしさに,お供えする幣帛の準備も出来ませんでした。この 手向山の錦のように美しい紅葉を,御意のままに幣帛としてお納め下さい。   5 みづひきの白糸はへて織るはたは 旅の衣にたちや重ねむ[大鏡・後撰集]    翌二十四日吉野の宮滝のだきり落ちる飛泉を賞で,道真公等群臣は歌を詠みます。  白い泡を立てて,岩に激しく流れ行く宮滝は,恰も水引の白糸を引き延べて織った布 のように見えます。その布を裁縫して旅衣の上に重ねて着たいものです。   6 紅にぬれつつ今日や匂ふらむ 木の葉移りて落つる時雨に[新拾遺集]    同二十九日,随行していた素性法師を送る和歌会があり,三十日住吉着。此処では浜 の光景を賞で,神社において和歌の会を催し,翌月一日朱雀院に帰られました。   7 流れゆくわれは水屑ミクズとなりはてぬ 君しがらみとなりてとどめよ[大鏡]    昌泰四年一月二十五日,左降の宣旨を受けられました。道真公の唯一の頼みは,宇多 法皇におすがりすることでした。  法皇は大いに驚かれ,わざわざ仁和寺から参洛し,夜になって御所にお着きになられ, 正月の凍る夜を徹して左衛門の陣にお坐りになられ開門を迫られましたが,藤原菅根が 門を守って堅く拒んだため,父子(法皇と醍醐天皇)の御対面も叶いませんでした。一 縷の望みも絶え,矢よりも急に京を追われることになります。   8 東風コチ吹かば匂ひおこせよ梅の花 主アルジなしとて春を忘るな[拾遺集]   東風コチ吹かば匂ひおこせよ梅の花 主アルジなしとて春な忘れそ[大鏡]    京より出発の日は二月一日(日本紀略に拠る),梅の季節です。宣風坊の庭前の梅も 真っ盛りでした。   9 君がすむ宿の梢のゆくゆくも かくるるまでにかへり見しはや[大鏡・拾遺集]    この歌は法皇に奉った歌とも,奥方に贈られた歌とも云います。   10 なけばこそ別れを急ぐ鶏トリの音ネの 聞こえぬ里のあかつきもがな    京から淀に出て,菅原家の故郷,河内国土師ハジの里の道明寺に立寄って,伯母覚寿尼 と一晩語り明かし,翌朝警固の武士が故意に鶏を鳴かせ,早や出発の時ぞと急セき立てる のを無常に思われました(この歌は道真公の作か否かは不明)。
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