09a 菅原道真公の和歌
  11 天つ星道も宿りもありながら 空にうきても思ほゆるかな[拾遺集]    空の星は軌道も宿もありながら落ちつかず瞬いて見えますが,自分も筑紫への道は通 じ,駅亭と云う宿りもありますが,心落ち着かず,憂きことの多いことよと,不安と懊 悩は深い。  明石から淡路の西浦に寄り,昔の任地讃岐の沖を西行し,今治・防府を経て豊前の椎 田に渡り,二月下旬頃に博多に上陸し,太宰府の配所に長の駕を税トかれたのでしょう。   12 夕されば野にも山にも立つけぶり なげきよりこそ燃えはじめけれ[大鏡]    同年七月十五日に延喜エンギと改元されました。改元の詔書には,「逆臣並びに辛酉革 命に依る(扶桑略記)」とあります。  道真公は,左降の時からこの罪名は聞かされていました。しかしそれが虚構であるこ とは,藤氏自身が一番よく知っている筈です。追放した後には,藤氏にも反省があり, 自責があるものと信じていたに違いありません。それなのにこの詔書はどうであろう。 いぜん反省はなく,冷腸です。いよいよ自分(藤氏)の非を蔽おうとしています。道真 公の怒りは心頭に発したのです。  夕方ともなれば,野にも山にも満ち満ちて立ち上るあの煙は,わが冤罪を嘆く,その 嘆きが燃え始めたのでしょうか。まことに嘆きの煙の絶える時はありません。嘆きに木 を掛けています。   13 天の下かはけるほどのなければや 着てし濡衣ひるよしもなき[大鏡・拾遺集]    天下は佞臣の雲蔓延ハビコって,天日もために暗いためか,わが濡衣の乾くすべもあり ません。   14 かりがねの秋なくことはことわりぞ 帰る春さへなにか悲しき[後撰集]    『聞旅雁(道真公の漢詩)』には,「わたしは北からの流された人 おまえは北から のお客さん 自ら欲して来たと 欲せざるに来たとの違いはあるが お互いに寂しいさ すらいの身だね 枕をそばだてお前の啼声に聞き入りながら 何時になったら帰れるか と考えていたら あっ わたしは何時のことやら お前は明春ともなれば帰れるけれど 」とあります。  秋の夜に啼き渡る雁の寂しい声,自分と同じ心かと雁に呼び掛けているうち,何と云 う残酷な発見でしょう,おのが五体に刃しています。   15 つくしにも紫生ふる野辺はあれど なき名悲しむ人ぞ聞えぬ[新古今集]    洛北に紫野があり,筑紫にも紫村(榎寺の直ぐ近く)があること,また紫の色を縁ユカリ の色と云うところから筑紫にも縁者が居る意を掛けています。此処筑紫にも縁の者がい ない訳ではありませんが,私の冤罪に同情してくれる者は殆どいません,世間の眼の冷 たさよの意で,親族の不人情を怨んでいるのです。  なお,漢詩『叙意一百韻』においては,親族に感謝していますが,どちらもその場合 の偽りのない心でしょう。   16 足曳のあなたこなたに道はあれど 都へいざといふ人ぞなき[新古今集]    謫所は宝満・大根地オオネジ・四王寺・大野・天拝・基山などの山々に囲まれ,外部と絶 縁されているように見えます。しかし,実際にはその山々の向かい側には道があって都 へも通ずる筈ですが,私を都へと誘ってくれる人はありません。   17 刈萱の関守にのみ見えつるは 人もゆるさぬ道べなりけり[新古今集]    流罪の身ゆえ,監視されて出歩きもままならぬこの身には,どの道も刈萱の関守のい る関路のように思われます,と云うのです。   18 あめの下乾けるほどのなければや きてし濡衣ひるよしもなき[大鏡]   天の下のがるる人のなければや きてし濡衣ひるよしもなき[拾遺集]    あの雨の降り来る天の下には,物の乾く間もない故か,私の濡衣の乾くよしもありま せん。佞臣が蔓延って,天日もために暗いことを嘆いているのです。   19 草葉には玉と見えつつ佗び人の 袖のなみだの秋の白露[新古今集]    草葉の上に置く露は,美しく玉のように輝き,真に愛すべきものですが,世をはばか る私には涙の露がこぼれて,侘びしい秋です。  世を嘆く人の,物哀しい秋にさえ逢うて,いかばかり悲哀の情が切であったでしょう かと,漫ソゾろに偲ばれます。   20 谷深み春の光のおそければ 雪につつめる鴬の声[新古今集]    四方を山で囲まれた南館の辺りは,盆地の底みたいな処です。そのせいで雪も深い, 春光の届くのも遅い。  道真公自身の谷も測り知れず深い。何時の日か春光達し,天日を仰ぎ得るでしょう。   21 道の辺の朽木の柳春くれば あはれ昔と忍ばれぞする[新古今集]    芽の吹くこともない自分を,生きのいい柳と対比して詠ったものです。   22 月ごとに流ると思ひし真澄鏡マスカガミ 西の空にもとまらざりけり    月の夜毎に月は西に流れますが,また東へ帰ります,自分は帰れる時はないのです。  「真澄鏡」は詩の「玄鑑」です。月であると共に,正邪を曇りなく照らし出す鏡です が,道真公の生前においては遂にその玄妙な照破はなかったのです。  しかし,薨後間もなく本官に復し,正二位を贈られ,やがて太政大臣を追贈されまし た。また藤原時平の弟仲平は勅命を受けて下向し,菅公廟を造営しました。明治時代に 至り,臣下中唯一官幣社に列せられました。これらは天の玄鑑が浮雲を披ヒラいたと云う べきでしょう。
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