「或る人問う」 明治初期の神仏分離令が出されるまでは、わが国の宗教は神仏習合を旨として、人々 の人生観なり世界観を形成していた。 明治維新に至って神仏分離令が普く行われても、また第二次世界大戦後の新憲法下におい ても、神と仏とは共存共栄の様を呈している。 また、わが日本の人々の大部分は、仏教(いわゆる「日本仏教」)を信仰している。 そして、現に数え切れない宗派が存在している。 そのため、お互いの宗派の維持共存を期するために、「宗派の争い釈迦の恥」として、 他派をまともに攻撃しない風土を醸成している。 「お経」の趣旨はそれぞれ異なっていても、それは、いわゆる「方便」とし、総て の「お経」は釈尊に帰する ― 収斂していくのである。 従って、わが国においては、「釈尊」とか「釈尊の教え」とかは絶対の真理として認 識されている。 即ち、どのような詭弁を吐露しても、それは釈尊へ至る過程での方便として世の中 に受け入れられるのである。 さて、このようにわが国の人々に崇拝されている釈尊(他の仏陀達も)は、いわゆ る「仏=仏様」として、神と同一視されている。 しからば、仏とは「神そのものである」と考えられるが…… 「我は想う」 一般的には仏教徒は、「仏は仏であり、仏は神ではない」とかたくなに主張している ので、「仏は神では有り得ない」と想う。 「或る人問う」 それでもなお、神も人々を守護するし、仏も人々を救済するので、神も仏も同じで あると考えられるが…… 「我は想う」 そのとおりである。 「仏は仏であり、仏は神ではないと信じている」仏教徒もおられると考えられるが、 自分も含めて、それ以外の人々はおしなべて、「仏は、実は神ではないだろうか、と思 っている」と想う。 「或る人問う」 その答えは、曖昧では…… 「我は想う」 そのとおり曖昧である。 「或る人問う」 それでは答えになっていない…… 「我は想う」 自分は想うに、わが国の人々の大方は、「神も仏も同じものであると信じている」と 言い云い得る。そして「しかし必ずしも、神と仏とは同一ではない」と云うことも。 「或る人問う」 神と仏とは、文字も異なるし、意味も異なるからであろうか…… 「我は想う」 そのとおりであるが、仏には、神に成り得ない、何かがあると想う。 |
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