ファウスト一束の鍵とランプを携え鉄扉(とびら)の前に立つ。 ファウスト あゝいやにぞくぞくする、こんな事は頓と覚がない、あゝ此の世の哀愁が一時に 迫って来た様な気持がする、此の湿っぽい壁の隣がマーガレットの住居か、罪を犯した と云う訳でもないのに、こんな処に入れられて……、何故俺は躊躇するのだろう、 あゝ気の毒らしくって会うのが辛い……、之じゃいかん、愚図々々して居ると取返しが 付かなくなるぞ。 ファウストは勇を鼓して錠を握った時、内に子守歌を歌う声きこゆ。 遊女の母さん妾を殺し、 無頼の父さん妾を食べた、 骨を集めて涼しい場所に、 埋めてくれたは可愛い妹、 それで妾は美鳥(ことり)となって、 あちらへひーらり、こちらへひーらり。 ファウスト錠に鍵をあてゝまわす。 ファウスト 自分の恋人が立聞して居るとは思うまい、鉄索(くさり)の響と藁のがさがさがよく 聞こえる。 ファウスト扉を開いて入り来る。 マーガレットは獄吏と思い、藁の床に顔を隠す。 マーガレット おゝ、来た、来た、もう死ぬるのか。 ファウスト 静(しずか)に、静に、御身(おまえ)を助けに来たのだ。 ファウスト彼女を制す。 マーガレットは彼の前に身を投出して。 マーガレット あなたが人間なら、どうぞ妾の悲(かなしみ)を察してください。 ファウスト そんな声をすると、番人が目を覚ますじゃないか。 ファウストは鉄索を攫んで解こうとする。 マーガレットは震えながら跪いて。 マーガレット 御役人さま、何方様(どなた)の御命令かは存じませぬが、此の夜半(まよなか)に 御引出になるので御座りますか、御慈悲です、どうぞ助けて下さい、もう直ぐ夜が明ける じゃありませんか。 マーガレット立上りて言を続ける。 妾はまだ乙女だのに、もう死ぬるのですか、今思えば器量の好いのが却て仇となり ました……、あゝ今頃は何処に御出に遊ばすやら、つい先日までは朝夕御目に懸かり ましたが、最早花は散り、緑の冠は裂けて仕舞いました……、貴方、そんなに手荒く して下さるな、容赦(ゆるして)下さい、あなた様から御憎(にくしみ)を受ける 覚えはありません、これ程御願い申しても御聴許(きゝいれ)がないのですか、妾は 初対面の御方から此の様な目に……。 ファウスト あゝ、何んたる悲惨なことだろう、見るに忍びない。 マーガレット はい、仰せの通りに致しますから、一寸此児に乳を哺す間御猶予を、妾は終夜 確(しっか)と抱き緊めて居りましたのに、人を困らそうと思って、誰が攫(さらっ) て行ったのでしょう、そして妾が殺したんだと申して居ります……、あゝ、妾はもう 何の楽みもありゃしない、それのみか妾のことを昔の歌の替歌にして謡うなんて、まあ なんて意地が悪るいんでしょう。 ファウストは堪まり兼ねてマーガレットの足下(あしもと)に身を 投出して。 ファウスト 御身(おまえ)には此処に居る恋人が判らぬか、救うてやりたいばっかりに来たのだ。 マーガレットもファウストの傍に身を投出して。 マーガレット さあ、跪いて聖徒に祈祷を捧げましょう、御覧なさい、階段の下も閾(しきい)の 下も、地獄の火は炎々として燃え、渋面の鬼は怒り猛って居ります。 |
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